帚木 蓬生: 香子(五) 紫式部物語
読み継いできたこの物語も、最終章となり、ずっしりと感慨が残っている。宇治の物語は「早蕨」の帖から第五十四帖「夢の浮橋」までが紹介されていて、完結する。薫大将の一途な思いが成就されないままであることと、浮舟の女性としての諦念が、切なく胸に迫る。この巻の舞台が都を離れた宇治と、横川(比叡山)のふもと小野の里という鄙びたところであるということも物寂しさと関係があるだろう。紫式部は、決してハッピーエンドにしない。作中には源氏物語絵巻も紹介され、文字で読むとそれらの絵巻物も鑑賞したくなる。香子(かおるこ=紫式部)の物語は、彰子中宮の存在がますます重くなる。大河ドラマでおなじみの実資や公任も、この巻では出番が多い。娘賢子の出仕とその先も紹介されている。紫式部の本名が香子であることの秘密も少し明かされていて、諸説ある中で、作者帚木蓬生が、香子を選んだ訳にも納得した。
森埜 こみち: 彼女たちのバックヤード
中3の仲良しグループ詩織、璃子、千秋のそれぞれの家庭事情も交えて、物語が進行していく。確かに学校で仲良くしていてもその「きょうだい」や親のことなどは、互いに知らないことも多い。一度気持ちが行き違ったら、修正は難しいことも多い。映画館に映画を見に行こうという話が出たが、弟を見なくちゃあいけないからという璃子の誘いに乗って、璃子の家に行くことになった。「うちの弟変わってるから」という言葉通り、もうすぐ3歳になるのに、言葉が話せない弟に違和感をもつ詩織だった。千秋は小さい弟がいるので慣れているようだけど、頬をかじられた。この物語の主人公は弟のゆうくんと言ってもよいだろう。3人はゆうくんとのコミュニケーションを工夫しながら築いていく。今どきの中3女子だから、それぞれに鬱屈するものもあるし、親世代との葛藤もある。ことばの出が遅い弟に関わる心理描写が清冽。心理士の立場から見ても、良く取材されている。あなたの思いが分かるよというメッセージと無理強いはしないというメッセージが大切と思う。
帚木 蓬生: 香子(三) 紫式部物語
香子(かおるこ=紫式部)は、彰子中宮と道長から依頼されて『白氏文集』の中の「新楽府(しんがふ)」を選び、進講する。やがて、中宮が懐妊すると、その状況を日記にしたためるようにとさらなる依頼がある。「紫式部日記」と世に言われている書物である。この本ではリアルな宮中の姿をその日記からとりながら、源氏物語も進行する。物語の中で活躍する女君たちは、雲居雁(くもいのかり)や玉鬘(たまかずら)、源氏が引き取って紫式部が育てた明石の姫君など、次世代の若い姫たちの登場である。男君達も夕霧や柏木など、この先源氏物語の主要な人物となる息子世代の人々も若々しい姿を見せる。そして後半のエポックは、明石の姫君が東宮に入内し中宮とよばれようになり、男の御子を出産して、源氏は念願の外祖父となり、栄耀栄華の頂点を極めることになったことだ。作者はここで香子の思いを「物語を続けるには、この完成した構図を打ち破らなければならない。・・・難路を打ち破るには牛歩で踏破していくしかない・・・」「難渋こそが、物語の優劣を決める渡河点ともいえる」を述べており、源氏物語はこの先も紆余曲折し、登場人物の誰彼の思いや行為によって、まだまだ長編となることが読み手に伝わってくる。ストーリーの展開を期待し、先を急ぐ気持ちも読み手の私にはありながら、和歌や漢詩にも丁寧に注釈をつけてくださる帚木蓬生師のネガティブケイパビリティに付き合って物語を楽しんでいきたい。
帚木 蓬生: 香子(二) 紫式部物語
巻🉂の、香子(かおるこ・紫式部)は結婚し、娘賢子(かたこ)を得るが、夫宣孝(のぶたか)殿は、当時京を席巻していた疫病に罹り、早世する。短い結婚生活であった。香子は物語を書き繋ぎ、母や祖母、妹など家族の感想も上々であった。写本してひろがった物語は、朝廷の女房達や貴族たちにも悦ばれていた。帝の中宮定子のはかない運命と、道長の権勢いや増して、その娘彰子が入内し、中宮となる栄華が描かれている。香子は道長に乞われて、宮廷に出仕し彰子の家庭教師のような役目を務めている。
香子の書き繋ぐ物語のほうは、桐壷院が崩御し新帝になってからは、その外祖父である右大臣家の一族が権勢をほしいままにし、源氏の君は須磨に隠遁せざるを得なくなった。明石の君に出会い、源氏は初めての子である姫君を得る。
作者帚木蓬生は、物語を書き続ける香子の心理描写と、女官たちとの会話によって、登場人物たちの運命が、作者にも「さあどうなんでしょう」というように先が見えないからこそ、ますます面白く豊かに広がっていくことを、描いている。ネガティブケイパビリティの心理描写だと読める。
易経を読み解くブログページに、紹介文を書いているからには、この巻に易経の言葉「日、中すれば即ち傾き、月、盈(みつ)れば即ち欠く」【雷火豊】、「鬼神は盈(えい=満ること)を害して、謙に福(さいわい)し、人道は盈を悪(にく)みて、謙を好む」【地山謙】が紹介されていることも書き加えておきたい。
こまつ あやこ: 雨にシュクラン
表紙タイトルの下に水色のアラビア文字が見える。知らなかったらデザインの一種のように思えるだろう。主人公内藤真帆は、書道部の活動で有名な私立高校の1年生に入学したばかり。父の奏介は心身の調子を崩して実家のある街に引っ越ししてきたばかり。遠距離通学をしているけど、睡眠不足に耐えかねてついに学校を退学。昼間に行くところのないティーンはどうするんだろう?それは読んでみてのお楽しみ。物語は、図書館を介していろいろな人々に出会い、アラビア習字に出会うという展開になるけど、読み進むわくわく感を壊さないためには紹介はここまでにしましょう。シュクランにも本のなかで出会ってほしい。この作者の言葉使いはテンポが良くて、今風に読めてローバも楽しい。YA(ヤングアダルト)本の中に多様性がさく裂している昨今。
帚木 蓬生: 香子(一)紫式部物語
著者は自分のペンネームを源氏物語からとっているほどの人、どのように紫式部を小説化するのか大変興味があったので、面白く読んだ。『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』では、シェイクスピアと紫式部にその力があったから偉大な物語が描けたとしています。また精神科医の仕事もまた小説家の仕事と同じであると述べています。「何事も決められない宙ぶらりんの状態に耐えている過程で、患者さんは自分の道を見つけ、登場人物もおのずと生きる道を見つけて小説を完結させてくれるのです」とあります。先の見えない道を進むからこそおのずと登場人物たち相互の関連で物語が動いていく、そのことが帚木氏が筆を執った「紫式部物語」では地の文の中で示され続けていた。
「光る君へ」は漫画のような展開だけど、生きている俳優さんたちが生身で真剣に演じるので、当時の宮廷の事情や公卿たちの名前が分かりかけている。その同じ時期に出版された『香子』では、香子(紫式部)の物語の中に、『源氏物語』が入り込んでいる。物語(小説)を書くという営みのすごさと愉悦が、伝わってきて早く続きが読みたいと思うばかりであった。
ピーター・ブラウン, ピーター・ブラウン, 前沢 明枝: 帰れ 野生のロボット (世界傑作童話シリーズ)
前作「野生のロボット」の続編です。事故で無人島に流れ着いた箱詰めロボットにひょんなことで起動スイッチが入り、誕生します。よく観察し、分かり、学習を重ねて自分の知識と知能を拡げていきます。動物語が話せるようになっても、島の動物たちにすぐに受け入れられるわけではないのです。動物たちにとっては、何しろ変な生き物で怪物ですから。違ってきたのは、巣から落ちたガンのひなを助け、「ママ」になってからです。自分のことは「ロズ」と呼びます。それからの波乱万丈は前作。最後にはずたずたに破壊されて、回収されて行きます。
人間社会に連れ戻されたロズは修理を終えて生まれ変わり、岡の上農場に買われて行きます。人間の役に立つようにプログラミングされているロズは農場の仕事はお手の物だし、そこの二人の子どもともすぐに仲良くなります。あの島の記憶は残っています。ガンの息子のキラリと約束したことも忘れません。島に帰りたい気持ちでいっぱいです。島での生活を「お話」として二人の子どもに毎日してあげます。
さて、これ以上細かいことを書き連ねていると著作権侵害になりそう。ぜひ手に取って読んでみてください。私の子ども心が大喜びする本でした。
ロズには好奇心があるばかりでなく、思いやりや友だちになる力までが備わっていて、大好きという感情までがあるようです。ロズは自分の設計者モロボ博士に語ります。欠陥があるロボットかもしれないという博士に「…わたしには自分の考えも、自分の気持ちもある。自分で自分の人生を作ってきました。…」なんてすてきな欠陥でしょうと語るロズです。
この本の絵も作者ピーター・ブラウンが描きました。未来の社会と無人島や農場の暮らしが墨一色の陰影だけで描かれているのだけどどんなに多くの色を使ってもここまで内容を深める絵にはならないと思います。挿絵を読む時間も楽しかったです。
池谷 裕二: 自分では気づかない、ココロの盲点
心理学のいろいろな法則や定説をあらわす用語(○○効果とか××バイアスと)を問いと答えで分かりやすく解説しています。この本のことを数年前に知っていたなら公認心理師の試験のときに勉強に使えたのにと思いました。一番心に残ったのは、「23 そんなに覚えられない」の項です。60歳以上のグループを二つに分けます。片方は「これから心理テストを行います」と説明してから24個の単語を眺めてもらいます。もう片方は「これから暗記テストを行います」と説明して同じことをしてもらいます。さて、どちらのグループがより多くの言葉を正しく挙げたでしょうか?という問いに対して、正解は「?」ご想像に任せます。年配者は年を取ると記憶力が落ちると信じているものだから、「暗記テスト」と言われると結果も悪い訳です。なんと、「忘れっぽい」「しわ」「孤独」などと老人をイメージする言葉を見せると、若い人でも歩く速度が老人のように遅くなるのだとか。自虐ネタのように、「加齢受け入れアッピール」でくんぷう婆などと書いていた私は何と浅はかだったのでしょうか!自ら「老い」を加速させる方向に追い込んでいたなんて。このような効果をプライミング効果というそうです。「前向き思考は大切ですね」と、池谷さんも言っています。私もそれ以来、歩く速度を上げ、「年をとったから○○できない」を禁句にして、しわは見つめないようにしています。
前沢 明枝: 「エルマーのぼうけん」をかいた女性 ルース・S・ガネット (福音館の単行本)
「エルマーのぼうけん」は現役ぴかぴかの児童書。今でも幼児から小学生までにとても人気があります。若いお父さんお母さんにも、幼稚園や保育園の先生にも愛されていますね。この本の著者ルース・S・ガネットさんの伝記です。翻訳家の前沢明枝さんがルース来日時に通訳を務めて、ガネットさんの元気を見初めて以来のインスピレーションで、取材を申し込み実現した著作です。ガネットさんはこの本について「エルマーの物語を書いたのは、わたしでないの。わたしのなかの子どもが書いたの」と語っています。どんな育ち、どんな子ども時代だったのでしょうか?子育てのヒントもたくさん見つかることでしょう。
池谷 裕二: 最新脳研究が教える 16歳からの勉強法 (東進ブックス 東進新書)
「ドラゴン桜」の影響でしょうか?目指すは東大という若者が増えています。というか、私のクライアントさんには増えています。小学4年生くらいから高校3年生まで。昔なら、「無理でしょう!」と言わずとも心で思っていたかもしれませんが、やり方次第では可能なのかもしれないと思うこの頃です。そんな思いでいろいろ考えていたらこの本に出会いました。この本の要点は、小学生頃は丸暗記が得意な脳。16歳になればもはや大人の脳になり、それは難しい。もう少し大人の脳の仕組みに合致した記憶戦略をとるしかない。それは記憶の関門である海馬をだまして「生きていくために重要な情報である」と信じさせて、短期記憶を長期記憶に移していくしかないというのです。具体的には忘れても忘れて何度も覚え直しをすることらしいです。それほど何度もやってくる情報なら、生きていくために必要なことだろうと脳は錯覚を起こすらしいです。なーんだそれができれば苦労はしないんだけどと思ってしまいます。そこは著者は最新鋭の脳科学者ですから無意識やら潜在的な記憶やらの働きも入れて説得的に書いていますから、1か月以内に復習し、それを何度も繰り返すとか、細かいノウハウもあり、受験生は騙されたと思ってこの本を読んだら、頑張ってほしいです。
それよりも、もっと大事なことが書かれています。「天才を作る記憶の仕組み」です。子どものころ勉強が嫌いだった著者は、九九を三つしか覚えなかったそうです。「ににんがし、にさんがろく、にしがはち」それ以外は暗記しなかったけれど、掛け算の答えを出す方法を見つけたのです。それもたった三つの計算、10倍にする、倍にする、半分にする、この三つですべての整数の計算ができるのです。ここの行(くだり)が面白かったですが、中身は読んでください。知識より、方法を知ること(方法記憶)が魔法の力を発揮するというのです。本の内容を深く知るにも、読んで丸暗記することなどできるわけはありません。分析し、関連づけなければ本は血肉にはならないと私も日々思っています。「勉強の成果はすぐには表れない、能力はあるとき爆発的に現れる」ということも面白かったです。1の努力で2の力を得、2の努力なら成果は4、3の努力なら成果は8、4の努力で成果は16、この調子で努力を続けるなら、10の努力で成果はなんと1024となるというのです。あなたも私もまだまだ2とか3の努力で止まっているのかもしれませんね。「努力の継続」こそが最も大切な勉学の心得とありますよ。詳しくは読んでみて、東大に入学できる学力を得てください。やる気にさせる本です。
カズオ・イシグロ, 土屋 政雄: クララとお日さま
クララはAF(Artificial Friend)として人工的に作られた。大きな街のお店に飾られていた時から、クララの物語が始まる。お店の店長さんによれば「観察力が鋭く、物事を見通す目を持つ最も驚くべきAFの一人」だという。病気の少女ジョジーに選ばれて彼女の元へ行き、最善の友達としての生活が始まった。相手を観察し言葉を聞き、表情を読み解き、必要な行動を起こして最善の友達になる。この未来小説では、子どもが寂しい思いをしないようにとそのようなパートナーを持つことが裕福な階級では勧められている。物語の背景に、格差が影を差している。ジョジーは向上処置を受けた子供として描かれ、隣家に住む幼馴染のリック少年は受けていない。どうやら親や本人の思いだけでなく経済的に処置を受けられるかどうかということが決まる社会のよう。リックは頭脳明晰で思いやり深い少年だけど、将来有望な大学へは進められそうない。ジョジーとリックには未来への計画がある。ところがジョジーは向上処置が原因のようだが、体調が悪くなり命も危ぶまれる状況に陥る。クララはそのジョジーを助けるために一心にお日さまに祈る。クララにとってお日さまは命の源。お日さまの光を浴びることで考えたり動いたりできるのだから。・・・と登場人物と背景を紹介するだけで、紙面が付きてしまう。説明はところどころ抽象的で具体的に見えても背景がわからず、読み手としては与えられた言葉で一心にクララの住む世界を理解しようとするしかない。それはまるでクララの認知機能をなぞっているような作業かもしれない。
カズオ・イシグロの描く子どもの世界は、ピュアで切ない。ジョジーもリックも、もちろんクララも互いへの優しさと自分自身としての主張をもち、その友達との思い出が人生を支えるものになっていることが伝わってくる。
『わたしを離さないで』でたっぷりと味わった「命に向き合う」行為の深淵を今作でも味わった。ネタバレにならないようにするためには、クララの献身については読んでみてとお薦めするほかない。
最終章のクララの描写がとても重い。物悲しくもあり、そうとしか考えられなくもあり、人として生きる私も最後はそれで満足できるなら、それでよいように思える。
月子, 七海 仁: Shrink~精神科医ヨワイ~ 4 (ヤングジャンプコミックス)
新宿ひだまりクリニックの精神科医・弱井幸之助が、ブラックジャックよろしくディープな心の悩みや不調に悩む患者を、柔く温かく受け止め、確かな技術と診断力で、バッタバッタと治療していく医療漫画です。ハーバード出の若くて独身の開業医という設定がいかにもの漫画の世界。内容はよく調べてあってリアルに感じることができました。01~03はいつか紹介するとして、04は03第16話から始まったPTSDの患者さんの物語。福島県相馬市出身、津波に巻き込まれ、親族や友達をなくした被災者です。原発事故発災の後、東京に避難してきた若者冬室は、繰り返し襲ってくるフラッシュバックの映像や友人や故郷を見捨ててきたと言う罪責感に苦しみ続けていました。夜中にどうにも苦しくて、クリニックに予約を入れ、ヨワイ先生の治療を受けることに…。ヨワイ先生は診察室でEMDRという眼球運動を伴う技法(トラウマになっている記憶の処理技法)で治療しながら、仕上げは相馬の地へ患者とともに訪れます。技法的には暴露療法(トラウマによって避けていたことに身をさらしながら恐怖感情を乗り越えていく)なのでしょう。避けていた海に近づきながら現実感を取り戻していき、生きていてもよいのだと思うようになるのです。疎遠になっていた親友とも心を開いて向かい合えるようになります。その友もまた相馬の地でPTSDの患者さんに向き合っている蟻塚医師(リアルな風貌で登場します)に治療を受け、相双地域の精神科医療を担う臨床心理士さん(実名登場)たちに支えられています。行ったことがある場所、知っている人々が登場するので、読んでいてゾクゾクしました。ヨワイ先生は「真の復興とはきっと、建物や風景が元に戻ることではなく、被災した人たちが生きる力を取り戻すことなのだと思います」「福島県の人々の心の痛みは現在進行形で続いています」と、この話の終わりに語っています。漫画の力、恐るべし。PTSDに苦しむ方々がドクター・ヨワイや蟻塚医師のような精神科医に出会いますように!!シュリンクとは縮むという意味ですが、アメリカの俗語では精神科医という意味だそうです。
サラ クロッサン, 最果 タヒ, 金原 瑞人: わたしの全てのわたしたち (ハーパーコリンズ・フィクション)
結合双生児として生きるグレースとティッピの物語。二人は、今まで家庭で勉強していたけど、もう家では勉強できないから9月から私立の高校2年生としての生活が始まる。繊細な心をもつグレースの一人語りとして、物語は進む。高校生活に慣れ、理解し合える友達が出来、好きな男の子もできる。家庭ではパパのアルコール依存、ママの失業、貧乏との闘いなど、難問が進行して行く。物語の中心は結合双生児としてして生まれた時から一緒にいるティッピと自分との関係。「わたしはわたしであり、けれどわたしだけではない」その感覚を語る言葉はすべてが詩。詩でしか語れない陰影。詩だから届く二人の思い。翻訳を手掛けるのは欧米のYA文学を数多く日本に紹介してきた金原瑞人。その訳文を詩人の最果タヒが詩の言葉に置き替えた。詩だから言葉が粒立ち、物語の中に埋もれて一気読みする。感情が揺らぐ。終盤の言葉の数々が今、私の胸の中でこだましている。久しぶりにリストを更新する気持ちになった。YA文学をローバが読んでも良い。
シルケ・ハッポネン, 高橋 絵里香: ムーミンキャラクター図鑑
著者のシルケ・ハッポネンさんは、フィンランドの児童文学研究者。博士論文はトーベ・ヤンソンの文章と絵を研究対象とした『フィリフヨンカの窓から』だそうです。この本はムーミン童話とムーミンコミックスに登場するキャラクターたちについての図鑑です。挿絵と作者の紹介文でたっぷりと、存在たちのユニークさを味わいながら、自分の中にある、ムーミンらしさや、ちびのミイらしさに思いを寄せて楽しめます。重要キャラクターについての解説では、トーベがどう描いたかを紹介しているだけではなく、「私たちの世界の○○たち」「○○になってみよう」とスパイスの効いたユーモアで楽しませてくれます。例えば、「ムーミンママになってみよう」では、「水道管から水が漏れたり、鍋の底が焦げたりと、予想外のことが起こった時には、次のセリフを言いましょう」と誘ってくれます。「これからは毎日プール遊びができるわね」「いずれにしてもあまりおいしくない料理になりそうだたわ。さあ、パンケーキでも作りましょう」最高のポジティブ・ママです。「ムーミンママになりたいなら、自分自身に対して厳しくなりすぎないように」ともアドバイスしてくれます。図鑑ですから、フィンランド語名のA~Öの順に並んでいます。この本の使い道?私は寝る前の入眠剤、お目ざめの気つけ薬として、枕元に常備しています。自分自身の中や、隣人の中に存在するムーミンたちに出会ってください。訳者は『青い光が見えたからー16歳のフィンランド留学記』の髙橋絵里香さん。以前に感動しながら留学記を読みました。その方がこんな分厚くて、哲学的な言葉も満載の本を訳されたのですね。無事にフィンランドの高校を卒業されて、大学にも入って教師を目指されているとか。
森川すいめい: その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――
その町のことは、私も知っていた。自殺でなくなる人が少ないという徳島県の海部町(旧)のことは、資料や写真を交えて知識はあった。
だが、この本で語られていることは、著者が実際に体験して、合点した思いであって、データよりも一層分かりやすく、意味がくみ取りやすい。本書は、日本の自殺でなくなる人が少ないという五か所六回にわたる旅の体験をまとめたものである。結局は生きやすいということはどういうことかということを体験的に分かっていく過程が述べられている。そして、フィンランドでのオープンダイアローグ研修の経験も交えて、自殺希少地域で得た結論をまとめている(かっこは、オープンダイアローグ対話の原則)。①困っている人がいたら、今、助ける(即時に助ける)②人と人との関係は疎で多(ソーシャルネットワークの見方)。③意志決定は現場で行う(柔軟かつ機動的に)④この地域の人達は見て見ぬふりができない(責任の所在の明確化)⑤解決するまでかかわり続ける(心理的つながりの連続性)⑥なるようになる。なるようにしかならない。(不確かさに耐える/寛容)⑦相手は変えられない。変えられるのは自分(対話主義)
「この島の人たちはひとの話を聞かない」というのは、「自分をしっかり持っていて、それを回りもしっかり受け止めている」という地域であるらしい。「助け合わない」とは「助けっぱなし、助けられっぱなし」という意味らしい。できる人が助ける。必要な人は助けられるでよいなら、お礼も気配りもいらなくて、生きやすいと思う。著者は、世界45の国をバックパッカーで旅した人であり、現役の精神科医であり、路上生活者の伴走者でもある人。読みたい精神科医(作家)がまた一人増えた。柔軟な筆致に心が緩む体験をした。ちなみに私の生まれたところ(半農半漁の寒村)もそんなところであった。
渡辺一枝: 聞き書き 南相馬
著者は保育士として暮らした後、チベットに行き続けて、『私のチベット紀行』集英社や『チベットを馬で行く』文春文庫などの著書で知られている。だが東日本大震災の後、福島県南相馬市のビジネスホテルを拠点にして、その地の人達と一緒にボランティア活動を続けて来られた。そのことを私は知らなかった。私もずっと行き続けていたけど、接点がなかった。それも一つの現実なのだと思う。この本は2011年発災以来の南相馬の地で、活動をされて来て出会った人々から届いた言葉をまとめたもの。「聞き書き」とタイトルにあるのでフィールドワークのように、意識して聞かれたこともあり、読んでみると、活動の中で拾ったり、届いたりした現地の人々の声を編集したものでもある。著者が定宿にしていたビジネスホテル六角は《原発事故から命と健康を守る会》という現地ボランティアグループの拠点でもあったとのことで、この本では住民の皆さんの放射能への思いが遠慮のない言葉で紹介されている。「ここで生きると決めたからには私は笑っていきます」という言葉が胸に染みる。また、「引き裂かれたコミュニティ」というタイトルの文では、放射能事故がもたらした賠償という問題もリアルに描かれている。この本の中では、お寺の住職さんや、ずっとお会いして来たT子さんなど私も親しい人達も登場していて、接点のなかった著者だけど、なぜか親しく感じた。原発事故の影響を受けながら暮らし続けている(9年という長い間になくなった方々の声も)庶民の思いをまとめた貴重な本と思う。
帚木 蓬生: ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)
世はポジティブ流行り。心理学の世界でも台頭しているポジティブ心理学。でも、どうしてもそちらに針が向かない時もある。そんな時に、ネガティブであることを、持ち続けることがとても大切だと思う中で、出会ったこの本。「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、この本によると、夭折したイギリスの詩人ジョン・キーツが、シェイクスピアに傾倒して、その本質を探っている時に見付けた言葉だそう。彼はシェイクスピアがネガティブ・ケイパビリティを有していたと、弟宛の手紙に書いている。「それは事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」であると述べていたという。シェイクスピアが、その態度であるからこそ、あれらの悲劇、喜劇を書くことができたということだそうだ。日本では紫式部と『源氏物語』が取り上げられている。ネガティブケイパビリティ(その思いと能力)があるからこそ、シェイクスピアが生み出した人間ドラマや源氏物語で語られる愛憎の真実が長い時を経ても人々に伝わると述べられている。精神科医であり、作家である作者の述べたい思いに共感した。カウンセリングの現場では、私の思いが大切であるときもあるが、その場に私がいなくて、ネガティブ・ケイパビリティだけが漂っているというような思いをすることも多い。易経で凶をいただくときに、そのメッセージを保持し続ける態度も、共通するものがありそう。
長谷川 博: アホウドリからオキノタユウへ
この優雅な鳥をアホウドリと呼んではいけない。オキノタユウと呼びましょうという、著者の主張です。全面的に賛成!アホウドリとは人間の手前勝手な呼び名です。
著者からこの本が送られてきました。ゾクゾクします。ずうっと以前にに「アホウドリ基金」に少しだけ寄付しただけなのに、ずっとご著書を送っていただいているのです。人生を鳥島のアルバトロス(アホウドリ改めオキノタユウ)復活に捧げた長谷川博さんの新著です。ずうっとなさってきたことをおッかけてきた、読者やテレビなどの報道で知っている方にも、この本は新しい見方を提供すると思います。第5章のオキノタユウの生活は観察を続けてきた著者ならではの視点で彼らの生活が生々しくリアルに描かれています。まるで眼前でみているかのように。もし次回があるなら、鳥島クルーズに参加したいです。
海洋汚染の現況と、もし人間が海をきれいにしようと決意するならそれは実現する!という力強いメッセージも受けとりました。今までの著作を読んでこられた方にもおすすめです。
正子, 半田, 奉枝, 畑: いつかの涙を光にかえて―統合失調症の兄とトイピアノ
福島の図書館脇のカフェのテーブルに置いてあった本。偶然手に取って時間を忘れて読みました。読みながら涙があふれるのを抑えることができませんでした。作者は統合失調症の兄を持つ、音楽家兼コンサートなどを手掛けるプロデューサーです。作者の思いが綴られた地の文と、ところどころに挿し挟まれた詩と、素晴らしい挿絵とが相まって、まるで音楽が聞こえるような本です。この本に詰まった「光」を私のつたない文章でお届けすることは難しい。描かれている兄の発症当時の家族の辛苦、お母さんの母としての強さにも涙です。多感な少女が受けた大きな傷つきと反発するバネのような力にも共感しました。当事者家族だからこそ描ける内面の嵐です。作者は音楽(ピアノ演奏)を通して、故郷(私も同郷・愛媛県)から遠く離れた地で、家族を振りきるような形で自立して行きます。やがて、家族を支えた母の病気と死。喪失感から音楽を失いそうになった時に出会ったトイピアノ。そのおもちゃのピアノに兄が魅せられたのです。兄の自由律の即興演奏の素晴らしさ。「これは光。光の音だ。」と感じ、「幻覚や妄想に悩まされ続け、それでも一人耐えてきた兄の長い時間を思った」とあります。トイピアノの奏でる音楽の中で、作者は兄の真実に触れたのです。「兄ちゃんごめんね。…本当にしんどかったやろ」と作者。兄からも「奉枝(ともえ)のこと、自分ずいぶんいじめたりしたろう?兄ちゃんのこと恨んどるやろな…ごめんな…」と言葉があり、まだまだ症状がありながらも、兄は毎日トイピアノで即興演奏し、録音し、ボイスメッセージも入れて作者の元に送って来るようになります。兄と妹のわかり合いばかりではありません。物語のエピローグには80代半ばの父の生き甲斐が家族会の活動になっていることがさらりと紹介されています。暴力の被害を受けた人の再生、家族の再生の物語。そして何よりも、病を生きる当事者の苦しみと尊厳が感じ取られます。思春期に発症することが多い、統合失調症という病気について私を含め知らないことが多すぎます。若い人にも読んで欲しいです。ただただ恐ろしいもののように思われているので「家族の秘密」にしてしまいがちの社会です。病と共生できる社会になることを願っています。良い本に巡り合いました。
Fries,Kenny, フリース,ケニー, 正孝, 古畑: マイノリティが見た神々の国・日本―障害者、LGBT、HIV患者、そしてガイジンの目から
著者は、詩人であり、身体的な障害を持ち、性志向はゲイであり、HIVの患者であり、そして日本の国に暮らせばガイジンであるという何重ものマイノリティ性をもって日本の障害者事情についての研究をするために来日した。著者の言葉によれば「日本で障害者であるということはどういうことか」という疑問の解決のために。タイトルの「神々の国」は異文化から日本を観察したラフカディオ・ハーンの『知られぬ日本の面影』の中の『神々の国の首都」からとられているのであろう。そう言えば、ハーン(小泉八雲)も片眼がない人であった。松江の朝について書かれた場面は今も私の脳裏に浮かぶ。
この本に書かれていることは何重もに入れ子になっていて、または多重の意味を持っている。例えばゲイの人達が如何にパートナーを愛しているかが切々と伝わり、LGBTを理解することのできる最良の一冊と思う。著者の「同性を愛する」という生き方が、リアルに進行する恋人とのやり取りで、まるで小説を読み、映画を見ているように伝わってくる。そして近年、言及されることは少なくなっているがHIVに感染し発症した患者であるということは?ということについても生々しくリアルに述べられている。
障害に関する文化という側面では、花田春兆氏がつとに言及されている蛭子神話や七福神について述べられている事象が改めて取り上げられている。障害のある人を神として祀るということ。古く日本書紀に登場している蛭児は、中世にはえびす信仰としてよみがえっていることなど、日本における障害者理解の古層について改めて考えさせられた。
それ以上に詩人である著者ケニーさんの感性が受け止めた日本の姿が新鮮で生き生きと伝わる。言葉の力がすごい。一気に読めたが多重の意味を与えられた言葉、または石庭のように、極限まで圧縮された言葉によって描かれた世界を十分に味わうにはまだまだ読みが浅い。再読したい。
小林美津江, 近澤優衣: ぼくの家はかえで荘 (LLブック)
虐待を受けた子どもが主人公です。「「ぼくは、お母さんと、かっちゃんという男の人と3人でくらしていましたが、ある日家でかっちゃんになぐられました。おでこから血がでました。でもぼくは、そのまま学校にいきました。学校の先生がびっくりしました。病院で6針ぬいました。先生が子どもセンターに電話して、子どもセンターの人が学校に来ました。子どもセンターの人は『しばらくかえで荘という子どもの施設でくらしましょう。』と言いました。かえで荘は山の中に離れてくらす子どもが住んでいました。そこでは、楽しい行事もあるし、職員の人や心理士の人ともたくさん話します。ある日かっちゃんはお父さんになる手続きをしましたが、ぼくはあの家では暮らしたくないのでかえで荘に残りました。クリスマス頃にはお母さんはかっちゃんと離婚したので、『お母さんにまた会えるようになります』と子どもセンターの人が言いに来ました。ぼくはお母さんに会いたいです。でもあの家に帰りたくないです。しばらくかえで荘で暮らします。」という内容の本文ですが、漢字にルビがふってあるだけでなく、ピクトグラムという絵文字でも簡略に内容がわかるように表現されています。この本はLLブック(やさしくよめる本)として作られています。読み障害や知的障害のある子どもにもわかりやすく読めます。
かえで荘は「障がい害児入所施設」という設定です。知的な面や情緒の面でも発達的な障害がみられる子どもが虐待を受けることが多いと言われています。その子どもたちが、自分が受けた心の傷を癒し、置かれた状況を理解しながら、自分がどうしたいか主体的に考え生きていけるようにするには、施設入所ということは権利であり、サポートでもあります。施設の職員や心理職などの大人の支援を受けて長期的に育ち直しをする場所でもあります。このような知識や励ましが必要な子どもは、現在はとても多く存在していると思われます。子どもに関わる人に読んでほしいです。
Wolk,Lauren, ウォーク,ローレン, はるの, 中井, 玲子, 中井川: この海を越えれば、わたしは
舞台はアメリカマサチューセッツ州のエリザベス諸島、カティハンク島の隣にある小島(干潮時には歩いてカティハンク島に渡れる)。日本人には、島の名前だけではイメージが湧かないがエリザベス諸島は富裕層も休暇を楽しみに来るところらしい。
時は1920年代。その島に暮らすクロウと言う名の少女は、自分の出自を知らない。小舟に流されて来たらしい。拾って育ててくれたオッシュという男と二人で住んでいる。そこに時々訪問してきて教育を授けてくれるミス・マギーと言う女性。3人の島の暮らしが魅力的に語られている。それだけでも、島好き、旅好きの方にはおすすめ。YA文学(青少年向け)ですが、大人も楽しめる。
クロウは島の学校に行くと、校長先生に拒否される。校長先生はドアノブまで消毒している。島の人たちもクロウを避けていて、どうやら恐れてもいるらしい。そのわけは、クロウは、この島の沖合にあるペキニーズ島(かつてハンセン病患者の療養所があった場所)から来たのではないかと思われているからのようだ。20年代当時は不治の病としてそして感染力が強いとして世界中で隔離政策がとられていた(本当は治る病、薬もあるし感染力も弱い、しかしそのことは書かれていない。20年代だから)そのペニキース島に灯る火を見つけたクロウは島に行くことを決意する。現在は療養所は閉鎖されて無人島のはずなのに、いったい何があるのか?自分が噂されているように本当に島から来たのかどうか、行ってみて調べたいという強い思いに、オッシュとマギーも心配で同行する。ここからは波乱万丈、手に汗握る冒険譚。ペニキース島に暮らした患者や看護師などの思いも丁寧に描かれている。ハンセン病を知らない現代のティーンにも理解が進むようにと描かれている。その上、ストーリーには…キャプテン・クックだの悪漢だの、嵐だの興奮要素満載。昨今の海外YAは楽しく読んで、障害や環境への理解が深まるような工夫のあるものが多い。
ブレイディ みかこ: ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
日本に住んでいると、皮膚の色で自分のアイデンティティを考えない人が多い。でもイギリスに住んでいれば、そうはいかない。皮膚の色ばかりではなく、出身地、家族構成、住まいする場所、宗教、あらゆるところに差異があり、その差異が差別を生む。現代イギリスの社会構造について無知でした。作者は、日本人でアイルランド人のパートナーとの間に、男の子がいて、イギリスに住んでいる。この息子さんを育てる過程で遭遇した、イギリス社会の多様性がテーマです。息子「多様性っていいことなんでしょ?学校でそう教わったけど」母「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃない方が楽よ」と母は息子に語ります。「楽じゃないものが、どうしていいの?」「楽ばかりしていると無知になるから」と母は答えます。そうか!無知か!と納得します。著者は、差別やヘイトを憎み糾弾する側に立ちません。無知ゆえに起こること。蒙を啓くしかないのですね。本当に無知蒙昧の自分に出会いながら、鱗を一枚一枚はがして行くような読書体験でした。真面目で優等生の「ぼく」だけど、日本式の真面目ではありません。生きることに対して真面目で、痛快な中学男子の思いを母が掬い取って語ります。「多様性っていいことだから」と気楽に使う言葉ではないなあ。違いを認め合って、違いを生きるってなかなかにおお仕事だなあ、と読後の思いでした。
竹下 大学: 日本の品種はすごい-うまい植物をめぐる物語 (中公新書 (2572))
野菜や果物の品種改良をめぐる物語。前に紹介した宙くんの本の流れで、この本を手に取ってみた。最初は書名の『日本の品種はすごい』にちょっと引っかかって、なんでもかんでも「日本すごい」にもっていっている風潮に乗じたタイトルと思ったけど、読み終わると納得。日本人の口に合う美味しさ×作りやすさ×多収量を求める品種改良の歴史を紹介する本である。本書の言葉では、早い、安い、うまい(上手さ)を紹介しながら、日常の食にまつわる蘊蓄が満載で、楽しく読めた。へえ!いいね!の繰り返しの読書体験。植物としてはジャガイモ、ナシ、リンゴ、カブ、ダイコン、ワサビの物語。登場人物は古今東西のブリーダーと呼ばれる品種改良を担う人達のなんといってもあきらめない探究精神が尊い。ダイズの章では、和食に欠かせない味噌、醤油、豆腐の原材料であるこの作物が、アメリカの意のままに、輸入自由化、関税撤廃、国内産地壊滅となってしまい、アメリカからの輸入が約7割を占めていて、なんと国産大豆の自給率は1994年には2%まで下がってしまったという行には衝撃を受けた。現在少し持ち直していてもまだ7%だそうだ。それでも田中角栄首相や土光経団連会長などがアメリカの意のままに操られないでダイズ確保のためブラジルの大地にダイズ栽培をゆだねたという遠大な戦略を読むと、まさに食糧戦争という言葉が思い浮かび、『日本の品種はすごい』という書名に納得した。トランプ大統領の関税脅しで、暫定合意。車を守って、農産物を手放すのでよいのか?私たち消費者は安ければそれでよいのか?と問われていると改めて思った。個々のエピソードでは友人のサイエンスさんが北陸に住み、手製のかぶら寿司を頂戴するので、かぶら寿司用の品種改良の話にもわくわくした。
小林 宙: タネの未来 僕が15歳でタネの会社を起業したわけ
全国ほとんどすべての小学校1年生が、生活科でアサガオの栽培をする。ずっと以前教科が理科といっていた時代から。宙(そら)君は来年もきれいな花を咲かせようと大事に種をとっておいて、次の年に植えたのに、去年と同じような大輪の朝顔は育たなかった。とてもがっかりしてどうしてだろう?と悩んだり考えたりしたのが、15歳で「伝統野菜のタネの会社」を起業した原点だった。同じような疑問は多くの子どもが持つかもしれないが、その疑問を育てる人はあまりいない。その小さな科学のタネを育てて、タネの会社にまで育てたところに感動する。知ってるようで知らないタネの話。勝手にタネを採ってはいけない。FI(種苗会社が品種改良したものは、種苗会社の権利がある)品種の話くらいは知っていたとしても、種子法だの種苗法だのでがんじがらめの種と野菜をめぐる現実のほとんどは私たち野菜を食べる人にとって興味の外の世界。とってもレアな本である。ほとんど知らない世界だったけど、16歳の宙君が同じ年頃の仲間に語る口調で描かれているので、読みやすい。自分に関係ない世界ではないのだと分かる。宙君の会社は、「鶴鶏種苗流通プロモーション」という、これまたとても珍しい名前の会社。自分で全国を巡って伝統野菜の種を仕入れてきて販売、流通させるのが会社の使命という。読後に、「タネ」というものの持つ、本来的なふくらみに思いを馳せた。野菜のタネは過去から来て(何万年もの間をかけて品種改良し味や形を固定したものが野菜)、これから何万年もの先の未来につながる。タネは過去に属しながら、本質的に未来そのもの。アサガオやドングリの種集めに凝っていた少年が育てた大きな世界を垣間見せていただいた。とことん追究することの素晴らしさが詰まっている。
アンジー・トーマス: ザ・ヘイト・ユー・ギヴ あなたがくれた憎しみ (海外文学コレクション)
物語はギャングが跋扈するゲットー(スラム街などの貧困地区)が舞台。女子高生スターは白人の多い高校に通っている黒人の少女。10歳の時友達が目の前で殺された辛い体験があるから、親は郊外の学費の高い私立に転校させた。殺されることのないようにと。でも16歳の今、またしても幼馴染の大切な友達カリルが目の前で、白人警官にピストルで撃たれて死んだ。スターははじめ、目撃者だということさえ名乗れない。心の傷の痛みがひどいから。一方初めのうちは警察の言い分だけが大きく報道され、カリルは殺された上にさらに凌辱される。カリルは学校を中退して、麻薬を売っているような少年だから、警官に殺されて当然という報道に、勇気を振り絞って目撃した状況について語り始める。「カリル、わたしは決して忘れない。決して諦めない。決して口をつぐんだりしない」と物語は締めくくられる。ヤングYA世代向けの本だが、大人が読んでも深くこころに残る。表題について文中ではカリルの語りとして「パックは、Thug Life ってのは、"The Hate U Give Little Infants Fucks Everybody"〈子供に植え付けた憎しみが社会に牙をむく〉の略だと言っているんだ」カリルが尊敬しているラッパーの2パックの言葉が紹介されている。そういった文化に疎いくんぷうだけど、この言葉やラッパー文化の根っこが本作を読んで少しわかった気がした。
責任編集 熊谷晋一郎: 当事者研究をはじめよう (臨床心理学 増刊第11号)
届いたばかりの雑誌を一気読みしました。
この本で取り上げられている当事者とは、アルコール依存症、薬物依存症、身体障害(難病)、発達障害、摂食障害などの環境からくる困りごとや、主体としての生きづらさを抱えている人達です。著者の多くは当事者であり、回復者であり、支援者であり、研究者であり、発言能力の高い人々です。セルフヘルプ(自助グループ)といわず「研究」ということで、自分の困りごとが外在化され、また研究は他者と共有でき、発信できるので力の回復になるのかと思います。当事者研究を身近なところで身近な仲間たちと始められるとよいですね。そのために「当事者研究をはじめよう」と呼びかけている今号です。『臨床心理学増刊』という心理学の専門雑誌が『みんなの当事者研究』『当事者研究と専門知』と特集を組み今回第3弾が最終回とのこと。3号続けて読んで、今号の読後感想は、議論されていることはもっともだけど、皆さんが知的能力の高い人達。先往く人として道を拓いていってほしいですが、そこにたどり着けない地べたを這うような人々の存在を忘れてはいけないと思いました。そのような多重の苦しみを抱えた方とカウンセリングしたり(くんぷうのカウンセリングは安いです)、幼児保育や教育の現場で出会ったり、また障害に関する本を仲間で読みあったりする中で培ったおもいです。
さて、自分自身のこと。25年前に地元でセルフヘルプグループ(自助グループ)を小人数で始めました。その時の主旨は「私のことは私が当事者」ということでした。家族や仕事の問題に悩みながらも、まずはこの自分。私自身を私が助けようということでした。もし、そこを深く掘り下げていったら、○○障害であったり、○○依存症であったりする自分や家族がいたかもしれません。当事者研究という言葉に深く惹かれるものがあるのは、そのせいなのかと思います。
ドリアン助川: 線量計と奥の細道
昨年のうちに読んでいたのに、取り上げるのが遅くなりました。書こう書こうと思っているので、常に作業机の脇に置いてあるんだけど、いつも慌ただしくて丁寧に文が書けない気分なのです。
『山海記(せんがいき)』同様に紀行文学の流れを汲みながら、3・11を刻印づけて後世に残る作品になるのではと思います。2018年に出版されましたが、作者が奥の細道をたどる自転車の旅をしたのは2012年8月からです。そうです、震災の次の年。まだ原発事故の恐ろしさが人々の生活の中に生々しく残っているとき。その時に思い立って、線量計を自転車のハンドルに付けたバッグに入れて、芭蕉がたどった道を江戸から陸奥(みちのく)へ、ぐるっと回って北陸から琵琶湖、関ヶ原、桑名までの旅です。道中の歌枕や史跡の名称を一つ一つ挙げると、なにかしら懐かしく思ってしまう私たちです。芭蕉も先人たちの歌枕を追って旅しました。ドリアンさんはその芭蕉を追いかけながら、震災から1年半の道を自転車単独行で旅したのです。那須の農場で、線量を書くことが良いのかどうか悩みます。子ども達の施設の傍らに、除染したという放射能まみれの土がブルーシートにただ覆われているだけで放置されている現状に戦慄します。福島のこと、あれこれ読んだり聞いたりしてきましたけど、この本で描かれている光景の多くはしりませんでした。それは、それぞれ独自で単一の日常の生活空間の中で、旅をしながら出会っていった現実なのです。また、旅をしたのが12年、上梓されたのは18年。作中にも書かれていますが、どこそこが何マイクロシーベルトだと記すには相当のためらいがあったことでしょう。今でも風評被害が言われています。(風評どころでない生活を侵害されている被害が現実に続いています)福島に関わりたくない、もう考えたくもないという人々が多く存在している(そのように持って行かれた)こともまた現実です。出版されて、この本を手にすることができて良かったと思います。
この本はでも、放射能事故後の現実を知らせるためだけに書かれた本ではないと思います。詩人の感性がその現実の中の旅を欲していた。芭蕉だったらどう見るか、どう旅するか?そこを体験したかったのではないでしょうか?
旅の面白さ、旅で出会う人々との交流の面白さを存分に味わえます。随所で「ドリアンさん、いい人だなあ。ドリアンさんの友達いいなあ」とほっこりします。この旅を追いかけてみたいと思います。ドリアン助川は、やはり西行や芭蕉に連なる歌詠み人だなあ。
佐伯 一麦: 山海記
日本一長い路線バスの旅のエッセイ?と思いきや、登場人物「彼」を主人公にした物語?かもしれない。どこまでがリアルな旅の記録なのか、どこにフィクションが挟まっているのか?私はまるで、作者が「彼」のように思え、なおかつ彼のバス旅に同行している気分で読んだ。実は大和八木から新宮に至るこのバス路線の旅に以前からあこがれていて、いつか近い将来に必ず行くと思い定めていたルートであったからでもあり、主人公の旅の動機が、東日本大震災とその年に起った紀伊半島の大水害の記憶を遡る旅でもあったからでもある。「彼」は、青年時代からの親友の死を受け入れがたく、なぜか水害が刻印されている奈良県十津川沿いの路線バスの旅に出る。あの大震災の時、仙台で被災し直接津波の影響は受けなかったものの、生活の上では大きな被災であった。日本人と災害について思考を巡らせているうちに、この路線にたどり着く。思いが旅を呼ぶというしくみは、芭蕉、西行を思い起すまでもなく、この列島に暮らすある種の人間の根っこの部分に組み込まれているようにおもう。淡々とバス停の地名とその土地の(十津川の水害、北海道への移民、天誅組、南朝などの)人々の生活や歴史と、バスに乗り合わせた乗客や運転手の動向が描かれてきた作品は、ちょうど路線の半ばにさしかかる谷瀬のつり橋でクライマックスに至る。つり橋の揺らぎの中で受け入れることができなかった友人の死を受け入れ、そして自分自身の受け入れがたい被虐待の記憶が重なってくる。…こんな紹介をしていたら、何文字かいてもこの本の真実にいたらない。作品は(バスの旅)は、唐突に中断される。きっと続きが書かれているだろうと期待している。その作品にならって、私もここで中断しよう。土地と時間と気象の深い絡まりの中で、人は生きている。書くことと旅することのなんと深い世界だろうか。
木ノ戸昌幸: まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験
この本は障害福祉に関する団体NPO法人「スウィング」の活動の記録であり、世に投げかけられた挑戦状でもあります。障害者と呼ばれる人たちの飾らない本音丸出しの生き方・働き方を紹介しています。「スウィング」メンバーの詩が素敵です。座談会も面白い。活動もユニークです。編著者は法人代表の若者。子供の時から、親の期待・教師の期待・自分自身の期待にがんじがらめになり、窮屈に生きてきて追い詰められてしまった著者は、22歳の時に、「大学生の不登校を考えるシンポジウム」に参加して自分自身の「生きづらさ」に正面から向かい合うようになりました。就職はしないと決めて様々な活動をする中で友人から「毎日笑えるよ」と声をかけられて「障害福祉」と呼ばれる世界に呼び込まれます。NPOとして活動を作り上げていく過程が面白い。この本を読むと、障害者と呼ばれる人たちの常識に合わせて生きることのできなさが、反転して常識に縛られない圧倒的な自由さと感じることができます。「この本のどこかしこに、散りばめられた金言、箴言、詩の言葉、はては戯言。読みながら、「え!そうなの?」と常識にひびが入り、「そうそう。そうなんだよね」と共感し、「え、そんなでいいの?それなら楽だよね」と自分も緩んでいく。そんな体験をしました。なにをくよくよ悩んで、日々を回していくのに疲れ果てているの‼「スウィング」さんの生き方を見らないましょうよと、読書中には思ったものでした。でも、読後4日目、常識の力は侮れません。まだまだ縛られていますが、作中に挟まれたたくさんの写真を思い浮かべて、私も揺れて、緩んで暮らしたいと思ったり思わなかったり。
東畑 開人: 野の医者は笑う: 心の治療とは何か?
この本を見つけたときは、興奮しました。私と同じようなことを考えている人がいる!でもって語り口もフィールドワークの対象となっている沖縄のヒーリング&セラピー界隈の事情も面白くて一気読みしました。科学的なお墨付きを得ていない方法で癒しに関わっている人達を「野の医者」と定義して、癒しの施療を受けながら、実地調査した(どこかからの助成金で)成果物としてまとめた本です(論文もどこかにあるでしょうけど、この1冊で十分です)読み終えて心に残ったことは、野の医者は傷ついたヒーラーであるということ。当たり前の話です。医者も看護師も心理士もそういった人が多いですし、私自身もそうです。本文でも、フロイトやユングにもふれられています。そうは言いながら、経済論理が大きくありようを決めていることが述べられています。「経済的に豊かになるために開業した」と書かれている野の医者さん達ですが、ちゃんとした就職口を得るために臨床心理士になる人とどこが違うのでしょうね?沖縄のユタの癒しについては踏み込んでいません。心に残ったのは自由な発想でプリコラージュした技法の面白さです。野の医者業界の古参の人たちには、河合隼雄さんの影響が残っているという点も面白かった。
著者は臨床心理士で、大学でも教えていらっしゃいますし、東京の一等地でセラピールームを開いてもいらっしゃるようですから、私からみたら野の医者とはとても言えない方ですが、お金さえかければアクセスできるというのは野の医者業界に近い在り方かもしれません。京都大学で臨床心理学を修められた正統派セラピストです。読み終えて、この本に出合った時の興奮は冷めていました。科学的と定義することのむなしさが残っています。
(記事をかいてから10年近くが経過しました。私は今も野のセラピストであり続けていますが、この著者さんは並ぶほどのないほどの臨床心理士界隈のプリンスであり重鎮として活躍されていますね。(書くことと物語ることの優位性を思います。源氏物語を読みながら)
津田 真人: 「ポリヴェーガル理論」を読む -からだ・こころ・社会-
最近のニュースに接すると、個人が「自分のからだとこころと社会」につながることを失ってしまった現代社会の悲劇のように思えて、関係者どなたにも痛ましい思いが湧きます。そういった現代日本の社会にシンクロ的に「今でしょ」としてこの本が上梓されたと思います。届いたばかりの新しい本を紹介します。1年をかけて読めたらよいなあと思います。著者は社会学を研究した学究ですが、鍼灸・あんま・マッサージ師、精神保健福祉士、ゲシュタルトセラピストなど複数の顔を持つ現代随一の治療家です。副題に「こころ・からだ・社会」とあるように、からだやこころを元気にするために社会(3者性のつながり)まで視野に入れて関わることの重要性と意味を、この本でつたえてくれていると思います。まだ、〈凡例〉と〈はじめに〉しか読んでいないのですが、わくわくしています。複雑で難解な「ポリヴェーガル(多重迷走神経)理論」はトラウマやストレスの治療には欠かせない手がかりを与えてくれるものとして世界中から注目されています。ストレスの「逃げるか戦うか反応」以外に第3の反応として、フリーズ反応があるということ、それをどう扱うかという視点を生物の脳の進化を背景にした神経理論として伝えてくれているのです。今、カウンセリングの中でも「フリーズ≒解離」を扱わないでは進まないケースが多いです。その難解な理論を著者がどう読み解いたのか、どう解釈してこれからの治療や社会につなげていくのか、難しいのに(聞きなれない専門用語が多い)、すらすらと読み進めて行けそうです。著者が面白がりながら、誠実に読み解いていくその頭の活動をすべて文字に起こしてくださったような本です。ワクワク感が伝染しそうで楽しみです。
東山 彰良: 僕が殺した人と僕を殺した人
「1984年。私たちは13歳だった。」台湾を舞台にした3人の少年たちの友情と、30年後の連続殺人事件。描かれた少年たちも取り巻く大人たちも、街の風景も南国の熱風に蒸されたように熱い。この作家の書く濃密な人間関係と活気に惹かれて、私は、読む。ほとんど一気読みに近い、疾走感がたまらない。サスペンスドラマは見ないんだけど…。読者の脳内に映像が流れる。もうすっかり日本の暮らしからは失われてしまった、互いに深くかかわりあう関係性に郷愁を覚える。
ドリアン助川: 新宿の猫
僕は、色弱であることを理由に希望するマスコミや映像業・広告の業界からは「色覚異常受験不可」で門前払いをされ、アルバイトしながら食いつないでいた。テレビのバラエティ番組の構成作家に拾われて見習いとしての修業を始めたけど、世間と相いれない気持ちも出てきて落ち着かない。唯一、新宿ゴールデン街の古くて狭いバーで、ホッピーを飲みながら、「猫じゃん」というギャンブルに興じている仲間たちと、猫の家族図を描いたアルバイトの女の子夢ちゃんと過ごす時間には、ヒリヒリした気分から解放され落ち着ける。新宿という町と猫たちへの愛があふれ、夢ちゃんと僕とのエレジー。挿入詩が平易な言葉で奥深い。猫好きにはたまらない。
池上 英子: 自閉症という知性 (NHK出版新書 580)
自閉症と言う言葉で印象付けられたイメージってどんなものでしょう?コミュニケーションが苦手?感覚が過敏?こだわりがある?想像力の障害がある?そんなマイナスイメージと共に、障害があって生きづらさを抱えていて、少数派であることにつらい思いをしている人っていうような社会的弱者なイメージを持っている人も多いかと思います。この本を読むと、そんな世間一般の自閉症当事者の「かわいそうな人」イメージが、一方的な見方でしかないことに気づかされます。視覚優位な認知特性を持つ人や、聴覚や嗅覚などの感受性の強い人たちの脳内奥深くで繰り広げられる、この世界の把握の仕方、知性の発露の仕方がどんなに広くて深いか、日米の事例を通して描かれています。カウンセリングや発達支援の現場で日々に出会う大人や子どもさんの姿を思い浮かべながら読みました。日本語で書かれた本ですが、著者はニューヨーク在住の社会学者。
寺澤 捷年: 和漢診療学――あたらしい漢方 (岩波新書)
西洋医学で神経内科学や中枢神経解剖学を修めた著者は、一方で若いころから身近であった漢方医学も研究してきた。アナログの漢方医学(とデジタル(心身二元論)の西洋医学を融合させた医学を「和漢診療学」という体系で実践と研究をされてきた。その集大成をこれから医学を志す若者に伝えたいとの志で編まれたこの新書。圧巻は、西洋医学では不定愁訴としてしか扱われなかった、でも患者にとっては辛い様々な症例を漢方薬で軽くして行く症例報告と最先端の脳神経科学や薬理学で裏打ちされた解説が併せて述べられているところである。糖尿病や高血圧などストレス性の数々の症状について納得がいく。読んでもよくわからないのは、漢方、処方と言う時の方、とその人の体の状態を証としてみる方証相対論という部分である。勝手に薬局に行って何とかという漢方薬を買うのではいけないな、今度漢方医にかかってみようと思い立った。明治維新に捨ててきた数々の文化的な知恵や知見の大切さが実感された。温故知新、素晴らしい哉。
濱口 瑛士: 書くことと描くこと -ディスレクシアだからこそできること-
著者は、東大先端研の「異才発掘プロジェクトROCKET]第1期スカラー生。ディスレクシア(読み書き障害)であった彼にとって、学校生活はどんなにか苦しかったことでしょう。音読と漢字テストが日常風景で、できないとみんなの前で馬鹿にされる。何より本人が苦痛を感じているのに、誰もその苦痛に配慮しない。今も日本中で苦しむ人たちがいることに気づいていきたい。本書は、12歳の時に「黒板に描けなかった夢~12歳学校からはみ出した少年画家の内なる世界」を世に問うた著者の2冊目の画集。第1部「書けなくたって、よめなくたって」で描かれたディスレクシアの世界、素晴らしいです。よーく伝わります。「そうだったのか!」。第2部の作品集。癒されます。不思議な味わい。繰り返しの多い、しかし丁寧な筆致で柔らく描かれた瑛士ワールド。特別付録児童憲章をカタチに。この本は図書館の7(芸術)の棚にありました。絵本として出版して、子どもやヤングの棚に並べてほしい。
安田 菜津紀: しあわせの牛乳 (ポプラ社ノンフィクション―生きかた)
岩手県岩泉市にある中洞(なかほら)牧場は、日本では珍しい完全放し飼いの牧場です。この飼い方を山地酪農と言うそうです。森や山の中で自然に育った(手入れはされています。芝や牧草の栽培もされていますが、農薬は使わない。肥料は牛たちの糞とそれを分解してくれる生き物たちの排泄物、落ち葉など)そこでは、牛たちは自由に歩き、遊び、食べ、寝て、水は谷川や池に来て自由に飲みます。子牛はお母さんのおっぱいが飲めます。そんな幸せな暮らしをしている牛たちの牛乳はとても美味しい。濃厚飼料を使わないのでちょっぴり乳脂肪が少ないそう。こんな夢みたいな酪農が実現したのは、中洞さんが小さいころからあこがれていた緑の山地・自然の中で牛を飼うということを実現させるための苦難と工夫があったからなのです。小学校中級から読めます。東京にいて、ここの牛乳飲めるかな?と調べてみたら通販サイトで買えるみたいです。
広瀬 宏之: 発達障害支援のコツ
著者は児童精神科医。本書は神奈川LD協会冬のセミナー2018「発達障害を支援するための基本の手引き」の講演録に加筆したものと、あとがきにあります。内容は専門的な最新の知見をもとに、医者やセラピストなどの治療者にも、保育や教育の支援者にも、家族や大人の当事者にもわかりやすいものとなっています。言葉の一つ一つが含蓄があって深いんです。一日1ページ、開いたところを読んで、今日のセラピーに活かしています。例えば「グレーゾーンと言う言葉」では、「グレーゾーンと言う言葉は非常に危険です。支援が必要な人はグレーゾーンではないんです」「グレーゾーンだから支援をしないで様子を見ていて不適応が嵩じていってしまうのが一番避けたいパターンです」とあります。この子(人)にどんな支援が必要なのか見抜く目を持ちたいです。
マイケル モーパーゴ: 希望の海へ
現代イギリス児童文学を代表する作家の作品。背景には、オーストラリアへの強制的な児童移民の歴史がある。第二次世界大戦後の戦災孤児アーサーは訳が分からないままに、オーストラリアに送られた。イギリスを発つ前に孤児院で姉のキティと別れる時一つの鍵を首にかけてもらったことが、自分自身が確かに生まれてきて存在していた、姉もいたという証となっている。この物語は2部仕立てで、前半はアーサーが書き残した自分史ノートの物語。オーストラリアでは、奴隷的な労働が待っていた。悲惨な生活から兄とも慕うマーティと共に逃げ出し、孤児となった野生動物を救済しているメグズおばさんに拾われた。ヨットを作る船大工の仕事をしたり、漁船に乗ったりした後、ベトナム戦争に従軍し心にダメージを受けて帰還した。病院で出会ったクレタ島からの移民を父に持つナースのジータと出会い幸せな家庭を築くまでの物語。第2部はアーサー亡き後、娘のアリー(18歳の少女)が父が作った決して沈まない小型ヨット・キティ4号に乗ってオーストラリアからイギリスまで地球半周の単独航海をする物語。父の鍵を首に幾多の困難をかいくぐりイギリスに到着し、鍵の謎とキティに出会うまでが、現代の物語らしく、メールやインターネットでの情報発信、宇宙飛行士等が登場して物語を支える。モーパーゴの物語は最後までぐいぐいひきつけながら声高ではないが、人の生き方の多様性を伝えて夢中にさせる。ヤングに読んでほしい。
ウェスリー キング: ぼくはO・C・ダニエル (鈴木出版の児童文学―この地球を生きる子どもたち)
この本は、2017年、ミステリー専門のエドガー賞児童図書部門を受賞しました。主人公ダニエルと共に殺人事件かもしれない謎に挑戦してワクワクしながら読み進めていけます。しかし、単純な謎解き物語ではなく、全編を覆っているのは、OCDの症状から逃れられない苦しみです。不安があると寝る前に2時間でも3時間でも儀式と呼ばれる強迫行為をしなければ就眠できないのです。ダニエルが「ザップ」と呼ぶ強迫観念が侵入してきて「○○をしろ。ダメだ。やり直せ」と命令し、ダニエルは手洗いやスイッチのオンオフ、歯磨きなどを繰り返しせざるを得ません。不合理と分かっていても止めることができません。涙を流しながら、し続ける苦悩がリアルに描かれています。作者もこの症状に苦しんだ当事者だそうです。 13歳のダニエルは、アメフトをやっているけど、とても自信がありません。蹴るだけや走るだけならできるのですが、試合でキックをする場面になるととたんに「ザップ」が襲ってくるし・・・。ある時スタメンの少年が怪我をして試合に出ざるを得なくなりました。謎解き、スポーツのヒーロー物語、異性への関心と友情が描かれ、ダニエルが密かに書き続けている「人類最後の子ども」という物語までが挿入されています。これでもかとばかりのエンターテイメント要素の投入です。作者は最後まで読んで欲しかったのですね。
OCDは、「強迫症」とも言われる病気です。子どもの有病率は2%前後とも言われています。この本の扉の裏には「OCDに向き合うあなたへ /ひとりでは見つからない希望も/助けを借りれば、かならず見つかります」と書かれています。ずっと秘密にしていたことを人に話すのには勇気がいります。OCDに苦しむ子どもにも大人にも楽しく読めて、回復への希望をもつきっかけになりそうな本です。OCDを知らない人にもこの病気について理解を深めていってほしいです。
エリック ウォルターズ: リバウンド (福音館の単行本)
これも少し前の児童書です。小学校上級から中学生くらいの人にお薦めですが、大人が読んでも面白いことは受け合います。カナダのある街に転校してきた車いすの少年デ―ヴィッドとバスケ好きの1学年上の少年ショーンのボーイ・ミ―ツ・ボーイの友情物語です。強がっていたデ―ヴィッドの心の奥底の寂しさと辛さに触れて、障害について思いを深めました。ショーンが車椅子体験をする場面もリアルです。
京谷 和幸: 車いすバスケで夢を駆けろ―元Jリーガー京谷和幸の挑戦 (ノンフィクション 知られざる世界)
児童書です。ロンドンパラリンピックの前に出版された古い本ですが、一連のリアルつながりで、読みました。
自動車事故で脊椎損傷を負って下半身はおろか、背筋、腹筋も使えなかったサッカーJリーガーだった選手が、車椅子バスケでスポーツ選手として復活するstoryに子ども達は勇気づけられることでしょう。「夢に向かって行動を起せば、必ず出会いがある」という素的な言葉に出会いました。
井上雄彦 チームリアル 編集: リアル×リオパラリンピック ~井上雄彦、熱狂のリオへ~
漫画家井上雄彦と取材チームが、リオ・パラリンピックの車椅子バスケを取材しました。マンガ「リアル」の登場人物たちを絡めながら、現実の試合と選手たちの姿を1冊の本にまとめてくれています。写真が素晴らしい。そして、リアルの原画もあり、選手たちのプロフィールも語りも読みごたえがありました。2020の東京パラりンピックまでに、「リアル」復活を熱望します!
井上 雄彦: リアル 1 (Young jump comics)
暮れだったか、正月だったか?テレビで車椅子バスケの選手京谷和幸さんの特集を見ました。その粘り強さと目標に取り組む熱さに感動しました。「リアル」のモデルの一人だということが知らされ、さっそくこの漫画を手に入れました。素晴らしい漫画です。劇画中の登場人物の心情と情念が本当にリアルに描かれている。単なるスポーツ根性物語ではないです。登場人物の生き方と個性が迫ってきます。障害に向き合う姿が生々しい。リアルでありながらファンタジーも含んでいて、私はプロレスラー・スコーピオン白鳥に感動しました。プロセスを知らないおばはんを感動させる井上雄彦さんの漫画の迫力!残念ながら14巻までしか描かれていません。続きが読みたい。(息子が古本屋で既刊全て見付けてくれました)。そういえばバガボンドも途中だとか。それも息子に進められ以前に読みましたっけ。スラムダンクは読んでいません。
フランシスコ・X.ストーク: マルセロ・イン・ザ・リアルワールド (STAMP BOOKS)
この本が出版された2013年に一度読み、今回二度目に読んで、このリストに紹介します。主人公マルセロは弁護士のお父さんと看護師のお母さんを持つ、アスペルガー障害に良く似た症状のある17歳。小学校入学以来、私立でお金がかかる障害児への支援が専門の学校パターソンに通っています。高校の最終学年を控えた夏休み、お父さんは、弁護士事務所というリアルな世界でアルバイトすることを求めます。マルセロはパターソンの農場で生まれたポニーの子馬を世話するアルバイトがしたいのですが、お父さんは強硬です。リアルな世界のアルバイトを成功裏に負えたなら最終学年までパターソンにいて良いと、交換条件を出されてしぶしぶお父さんの事務所で働くことになりました。
マルセロはオフィスの中で、衝撃的な写真に出会います。顔面の半分が削り取られている映像なのに、その子の瞳が強い思いを発して迫ってきます。直属の先輩ジャスミンと一緒にその子を探し出そうとします。ここからはミステリー仕立てですのであまり詳しくは書けません。
マルセロにとってリアルワールドとは、障害があろうとなかろうと、思春期の男性として通過しなければならない世界です。性の芽生えや、異性への関心もテーマです。一方で裁判の中で争われる正義と不正義の交錯する世界もあります。自己の実感に基づいた行動を通して世界へ関わろうとするマルセロは嘘がないという意味で最もリアルな存在かもしれません。現代アメリカが抱える貧困や差別などのリアルな現実も描かれています。
自分の思いを的確、適正な言葉で表現し、コミュニケーションに反映させたいと苦闘するマルセロが発達障害を理解する上で参考になります。私も自分の思いにぴったりした言葉を探して苦労をなさっている方々と出会っています。会話がゆっくりだから知的に劣っているわけではないのです。何も言わないからといって、何も考えていないわけでもないのです。その辺りの当事者としての在りよう(叙述)に大いに学ばされました。発達障害に関心のある方もない方も、現代アメリカ小説として「時代を映す鏡」として楽しめる作品ではないかと思います
ニール・シャスタマン: 僕には世界がふたつある
作者の後書きによると「アメリカの3世帯に1世帯は家族の中に精神疾患に悩まされてい」るそうです。翻訳者の金原瑞人さんは、訳者あとがきで「本文を全部読む前に読まないで」と書いてあります。上質のミステリーであり、ファンタジーも内包しています。読み終わった後、また初めから読み返してああ、この人があのキャラで・・・と振り返りたくなりました。私は書名からある予断をもって読み進みましたが、それでも十分に引きこまれました。当事者でなければ書けないような描写で叙述されています。それは作者が当事者家族でもあるからです。疾病と回復の物語です。今映画化が進んでいるそうです。話が進むにしたがって頭の中に映像が動きだしてきて惹きこまれます。ゲーム世代ならなおさらと思います。
長谷川ひろ子・秀夫: 生死いきたひ 生前四十九日
タイトルの「いきたひ」は、書影で見られるように本当は生と死が合体した造字で、著者が考案したものです。「生きたい」「生きた日」と読めます。生に切れ目なく死が続いていることも読み取れます。著者は同名の映画を自主制作されました。悪性リンパ腫で40代の若さで亡くなったご主人の希望でなくなる前の家族の看取りの様子を映画に撮られました。ご自宅の畳の上で亡くなられた後、4人の子どもさんと著者は朝まで添い寝をされます。その映像を中心に、後から「畳の上での看取り」「腕の中に抱えた看取り」「看取りができなかった死に向き合う」方々のインタビューなどで構成されています。死を恐れるあまり、私たちは自分の死も家族の死も本気で真剣に向き合ってこなかったなあと思います。この映画に触れ感動した人々が全国で上映会をされています。看護や医学を学ぶ人達の学校でも上映されています。私は、看取りを専門にする看護師さんから紹介されて映画を見、この本も読みました。本気で向き合わなければならない死が私の周りにもあります。ゆっくり考えています。
藤井克徳・池上洋通・石川満・井上英夫 編: 生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの
2016年の相模原殺傷事件の後、衝撃を受けながらも、黙ってはいられないと、障害について深くかかわっていらっしゃる6人プラス4人の方による、深い思考と問いかけの本です。タイトルの「生きたかった」から、犯人の投げかけた差別思想に対抗する書物であることが伝わってきます。6人の執筆者は、編者の4人の他に、盲聾重複障害の東大教授福島智さんと精神科医の香山リカさんです。他に、当事者・家族・支援者の立場の方4名も思いを綴られています。福島さんが述べていらっしゃるように、今は、障害の有無にかかわらず、誰もが生きづらく感じている現代日本の社会です。今回のこの事件を自分の問題として考え続ける努力を積み重ねていきたいです。自分には無縁と思っていた優生思想とヘイトクライムのその芽が自分の中に存在しないかどうか?自己点検の目も必要です。
- 手嶋 ひろ美: 笑われたくない! (文研ブックランド)
主人公結花は脳性まひのある小学4年生。不自由な体を笑われたくないといつも思っています。ところがお楽しみ会の出しもので結花たちの班は、二人羽織をすることになったのです。班の男子はわざと変な食べ方をして、みんなに笑ってもらいたい。結花は一生懸命、羽織の後ろの小雪と練習して、上手に食べるところを見せたい。心の中で「笑われること」にとても抵抗があるのです。 脳性まひの人の体の不自由さからくる心の苦しさ、社会の側のバリア、周囲の無理解などが結花の視点から丁寧に描かれています。私自身も今だに笑われたくないと思うことがあります。障害があってもなくても、人と違う自分を受け入れると、笑われることなどどうでも良くなるように思いました。大切なのは自分がどう生きるかということですね。著者自身も脳性まひのある人で、車いすの自分をじろじろ見る人には、自分からにっこり笑ってみるそうです。
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