フォト

くんぷうさんのヒーリングpilgrimage

  • 鴨と花びら
    薫風なりの聖地探訪を続けています。水の聖地とパワースポット。神社仏閣など。
無料ブログはココログ

くんぷうさんのヒーリングscenery

  • 水の貌 猛々しさも また自然(じねん)
    水・風・光の詩 未熟な写真ですが、ほっと安らげる映像を。

くんぷうさんの水・風・光

  • 撮影画像
    日々変わる多摩川上流の景色を中心に くんぷうの魂が癒されるシーンを 集めました。時には、川以外の水辺も ご紹介します。

カテゴリー「ニュース」の3件の記事

2019年4月 1日 (月)

令和の時代は?【地水師・初爻】をいただきました。戦の時代?凶とならぬよう、本当の意味の律が必要。人々の英知と善き師が必要。安穏と暮らしていけない時代になりそう。

新元号が発表されました。音による語感、漢字から受ける意味によるイメージが私たちにもたらされます。さて、「好い時代になりそう!」と夢と希望を胸に抱いた方はどれくらいいらっしゃるのでしょうか?易神様に「どんな時代になるでしょう?」と伺ったところ、【地水師・初爻】をいただきました。やっぱり!ヤダ!これは大変!と思った次第です。私の易は、本当に偶然の賜物ですが、絶妙にシンクロします。この卦がほしいと操作することはありません。こころに思うこともありません。

万葉集が出典と聞いて、若いころに国語国文学を学んだ身としては、一瞬良かったなあと思いましたが、いやいや違うでしょ!とすぐに思い至りました。令の音も字も、和になじみません。日本語で頭にラ行がくる言葉は、ほとんどありません。子どもたちには最も発音しにくい音です。これから生まれる子どもさん達には難儀だなァ。麗澤大学がありますが、あれは易経にも出ている言葉です。みなさましりとりで苦労されたことあるでしょう?令と言う字の元々の意味は屋根の下(天下)にひざまずく人々を集めるという意味です。そこから命令、律令などの言葉が生まれました。令月だの令夫人だのの言葉があり、「美しい、とか立派」と言う意味もありますが、それは後からついたものと思います。巧言令色少なし仁。命令、令書に令状。・・・。旧暦2月(万葉集由来の言葉として令月と言うそうな)の梅の歌からとったとのこと。ちなみにもともとは梅(うめ・むめ・め)はやまと言葉ではありません。ウメは外来種。ウメという音は呉音からきたものです。ただ一般的には、文献時代以前から入っていた言葉は外来語には含まないそうだけど・・・。でも国語を学んだ人なら常識なのに。「さくら」は「いのち」と同様に大和言葉です。何を言いたいかと言うと漢籍からとらないと言いながら、ちぐはぐ。突っ込みどころ満載の「令和」と思いました。つまりは漢籍を排除するというアッピールの仕方がいけすかない。好いところは、画数が少なくて、書くのは楽ですね。

今さっき易を立てどんな時代でしょうと問うたところが【地水師】闘いの卦でした。

善き師に率いられて、戦いに打って出る卦です。そのはじめ。まずは、内部の規律をつくりましょう。(ここでも令ですね)

色々懸案事項があります。戦うには、まずもって自分の内面でしっかりと方針を立て、ゆるがぬ規律を打ち立てたいです。

地水師ちすいし】この卦は2爻のみが陽で中心にあります。この陽が残りの陰を率いて、戦いに向かう卦です。師は集団を率いて指揮する人。そこから戦いのそのものも指すことになりました。師は、貞なり。丈人(じょうじん=立派な人)は吉にして、咎なし。

師の時は貞正(心正しく、行い正しく)がよい。立派な指揮者がいれば吉で失敗はない。

今日はその初めの爻。師に出(いず)るに律を以ってす。臧(よき)にあらざれば凶。

出陣に当たって、規律がもっとも大切。臧とは良いという意味。(漢字の原義には多少解釈の違いがのこりますが・・)良くない態度があれば凶。または、規律を失えば、一時的な良いことも、凶と変わる、ととらえてもいいでしょう。好いことではないので凶とも読み取れます。

人生の最終版の元号です。戦争だけは起こしてほしくない。起こさせてはいけない。これからもし起こるとすれば、先の大戦と同様、アメリカにさせられる戦争だと思います。易は変化の書。今、この元号の時代を占いましたが、この先どんどん変わっていくでしょう。【水風井】、【火風鼎】、【地天泰】の時代となってほしいです。言霊の力を信じて最後に弥栄弥栄。

くんぷう

 

 

2008年4月19日 (土)

「善光寺」判断とチベット問題

*いつもの、「今日の易占い」の記事を書き始めましたら、思わぬ展開となり、チベット問題について長く書いて収集がつかなくなりました。で、この部分だけ先にアップして項を改めて易占いを書きます。よかったらこの記事も読んでくださいませ。

朝刊の記事で長野「善光寺」の聖火リレー出発点返上のニュースを読んでほっとしました。政府のなさりようを眺めていると、ただただ御身大切、経済大切のニュアンスしか伝わってこなくて。このニュースに接して、自分自身が結構「チベット問題」に胸を痛めていたことを改めて感じました。

私たち市井の人間でも、遠く離れている人々の苦しみを知れば心をいためます。苦しい人々に感情移入します。でも、自分にはどうしようもない話と思いがちです。気がかりに全部付き合うわけに行かなくて、身辺雑事に追い回されて、気がかりはなかったことにして日々を過ごします。でも本当にはなかったことにできません。恐れや悲しみという感情は胸の奥深く沈みこんでいるにすぎないからです。

私は、今日「善光寺さん、よく決断してくださった。」という思いが湧き上がってきて、自分自身の気がかりの深さを知りました。

欧米の反応に組するものではないんだけど、座禅しにお寺に通っている者としては、チベットの人々には深い繋がりを感じます。

でも、一方でチベット問題と並んで中国が非難されている、ダルフールの問題にはなかなか関心が向かいません。その背後には、私たちが十分に事態を知らされていないというマスメディアの扱いの問題もあるのでしょうが、私自身が余り関心を示さないということもあるのです。少なくとも自分自身を省みればそう思えます。

ですから今チベットのことに関心を持ち、記事を書こうとしているのは、理論や主義ではなく、私自身につながる感情としての私的感想です。私はそのような立場でしか書くことができません。

一方で、易経を学び、気功を学んでいる身としては、中国びいきの気持ちも少しあります。私の中では、チベット文化への関心と中国文化(少数民族の文化を含めての)への関心は地続きのこととしてあります。

欧米の人々の人権感覚とは違っています。このたびのオリンピックでの言い様に「あなたたちの正義が全てではないでしょう。正義の背後に利権があるのではないの?」という疑念もおさえることができません。

私が行った気功センターでは密接にチベットと行き来をしている様子でした。蔵密(チベット密教)気功を学び取り入れている様子でした。「オンマニペネホン」という呪文や「大悲呪」のチベット音のお経が唱えられていました。中国政府の考え方はいざしらず、そこではチベット文化を滅ぼそうとする気配は微塵も感じられませんでした。それよりはチベットに学ぼうという思いがあるように見えました。有名なお寺にも行きましたが、そのお寺の最奥にはチベット語のお経を流し、チベット土産をならべておくお堂がありました。漢文化とチベット文化は共存できるのでは・・というのは、中国の側からみた意見なのでしょう。

チベットに暮らす人々、世界中に散らばって暮らすチベットの人々からみると、今は幸せではない。どうしたら、チベットの人々が幸せになれるのかと考えると、その地の人々が自ら選び取って自分の信ずる宗教生活ができるようになること。自分の生きる地で気兼ねなく暮らすこと。外国に暮らすチベットの人々も自由に往来できるようにすること。そういう当たり前のことが当たり前にできるようになることが大切と思います。当たり前にできないのは大きな力が働いているから。それを弾圧というのではないでしょうか?

中国政府に弾圧を止め、民族自治を保障してもらうことがその一歩であることは論をまちません。一人一人の意見表明が、国際的な理解と支援の輪になって中国政府を動かす力となることを願っています。

同時に、インドにいられる「ダライラマ法王」にチベットに帰っていただきたい。これは夢物語なんでしょうか?チベットに帰ることができるよう、国際社会で支援して差し上げることはできないのでしょうか?歴史を知らぬ薫風のたわごとではありますが、切に願います。

チベットの人々の平安を願って、この項終わりとします。

2007年5月19日 (土)

少年と母

先日いったんは書いたものの一瞬にして消えてしまった
記事について、形を変えて再度挑戦してみます。

書きたかったことは
くんぷうさんのヒーリングsceneryに緑あふれる写真を投稿した後の
ほのかに後ろめたい思いでした。
私は、自然に対して、心と体が開かれていて、自然との一体感があれば
人はなんとか生きていけるのではないかと考えています。
自然とつながる体が、
人と人との関係をもつなぐことのできる体になるだろう
と考えています。
どんなに苦しい事情を抱えていても
自然に包まれていると癒されて
また、新しい元氣がもらえるのではないかと思います。
そんな思いがあって、「くんぷうさんのヒーリングscenery」というアルバム
を作り更新しています。
水曜日(16日)浅川と多摩川の合流点近くを訪れる機会があり
嬉しく、楽しく写真を撮りました。
帰ってその夜には写真を投稿し終え
少し浮き足立った気分でした。
そのとき
「まてよ。あの福島の少年だって
 自然に抱かれて育ったに違いない。
 緑の野原を駆け抜けたこともあっただろう。
 それなのに、あんなことをしてしまった。
 一番つながっていることが実感できる筈の自分の
 母親を殺してしまった。母親を殺すことは
 自分を殺すことに他ならない。
 少年にとって緑豊かなふるさとの自然は
 何だったのだろう。」
という疑問が湧き起こっていました。
同時に
カウンセラーを名乗って、ブログに何か書いてる
自分が、この大事件をそ知らぬ顔でやりすごして
美しい自然の写真で遊んでいることがちょっぴり
後ろめたくもありました。
で、そんな思いを書いたのです。
が、ちょっとしたボタンミスで一瞬に消えてしまったのです。
で、そのときは
「まだいろいろ事情がわからないから、これは書くべき
記事でなかったのだろう。」
と考えてそのままにしておきました。

で、今朝いろいろ考えているうちに
「やっぱり、少し触れておきたい。」
という思いが残っているのに気がつきました。

母と子の余りの切なさに胸が痛くなります。
二人にとって、この世に生を受け親子の絆を
結んだことはどういう意味があったんだろう。
2007年の今という同時代を生きる
私たちにとってどういう意味があるんだろう。
中でも、そのニュースに接した子どもたち
日本中の若者たちにとってどうなんだろう。
不可解で、不条理で、とっても不快なんだけど

自分には関係ないこととは思えません。
自分の生命の延長線上に、
この親子の姿を感じることができるのです。
・・・
(自分も同じ運命をたどるかも?なんて思っているのでは
ありません。そんな単純なことではないけど・・・)
病んだ少年(まだ鑑定等されてるわけではないですけど)
を、その行為に走らせた原動力となった恐ろしい力は
私たちをも日々突き動かしているような気がするのです。
自分の命にとって最も大切なものは何かを、ほとんど考えもしないで
汚し、断ち切り、傷つけている自分がいることを知っています。

ところで、唐突ですが
玄有宗久和尚はなんておっしゃるんだろう
としきりに思っています。
長崎の少年に対して
「A少年に五百年の暗闇を」(玄有和尚と禅を暮らす、海竜社、2007)と
エッセイで述べられた師は、日本に宗教教育がないことを憂えていらっしゃる。
学校や家庭で「不思議」の提供が必要だとおっしゃっている。
わからないことをわからないままに飲み込むことの大切さ。
神や仏を信じることができること、地獄、極楽の存在をイマジネーションすること
などの大切さをおっしゃってる。
(この文は私の勝手な解釈と大雑把なまとめで
和尚様は、そんなこといってないよとおっしゃるかもです。お許しを)

「殺してみたかった。」といったと新聞には出ていましたが
中学校まで明るく元気で、勉強もスポーツもできた、
人にも優しかったという(週刊誌情報です)少年が、
そんなことを思いつめるには、いったいどんな
心の変遷をたどったのでしょう。

現在の理解中心の学校教育ではなにかしら、子どもが育つのに足りないものがある。
物を消費しまくることで成り立っている経済優先の社会では、子どもも大人も足りないものがある。

人の命はこの世限りのはかないものであり、死んだらそこで一巻の終わりという考え方は、
自分さえ良ければ、今さえよければということを導き出してしまう。
それでは人の命が続いていくのに
足りないものがある。

そう思います。

あの子が悪い。
この子が悪い。
あの親、悪い。
この親、悪い。
あの先生、悪い。
この先生、悪い。
あの人、悪い。
この人、悪い。
相談しよう。
そうしよう。
・・・
といって、悪い人を放逐していって
そして、だれもいなくなった。
なんてことにならないように
祈っています。


どうしても書きたかったことを
きちんと言葉に置き換えることができたか
こころもとないです。
わからないことは、わからないまま
飲み込めないことは、のみこめないまま
不思議を抱え、苦しみを抱えて
それでも元気に生きていける
ことを願っています。
薫風

くんぷうさんの、ともいきブックス

  • 森川すいめい: その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――

    森川すいめい: その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――
    その町のことは、私も知っていた。自殺でなくなる人が少ないという徳島県の海部町(旧)のことは、資料や写真を交えて知識はあった。 だが、この本で語られていることは、著者が実際に体験して、合点した思いであって、データよりも一層分かりやすく、意味がくみ取りやすい。本書は、日本の自殺でなくなる人が少ないという五か所六回にわたる旅の体験をまとめたものである。結局は生きやすいということはどういうことかということを体験的に分かっていく過程が述べられている。そして、フィンランドでのオープンダイアローグ研修の経験も交えて、自殺希少地域で得た結論をまとめている(かっこは、オープンダイアローグ対話の原則)。①困っている人がいたら、今、助ける(即時に助ける)②人と人との関係は疎で多(ソーシャルネットワークの見方)。③意志決定は現場で行う(柔軟かつ機動的に)④この地域の人達は見て見ぬふりができない(責任の所在の明確化)⑤解決するまでかかわり続ける(心理的つながりの連続性)⑥なるようになる。なるようにしかならない。(不確かさに耐える/寛容)⑦相手は変えられない。変えられるのは自分(対話主義) 「この島の人たちはひとの話を聞かない」というのは、「自分をしっかり持っていて、それを回りもしっかり受け止めている」という地域であるらしい。「助け合わない」とは「助けっぱなし、助けられっぱなし」という意味らしい。できる人が助ける。必要な人は助けられるでよいなら、お礼も気配りもいらなくて、生きやすいと思う。著者は、世界45の国をバックパッカーで旅した人であり、現役の精神科医であり、路上生活者の伴走者でもある人。読みたい精神科医(作家)がまた一人増えた。柔軟な筆致に心が緩む体験をした。ちなみに私の生まれたところ(半農半漁の寒村)もそんなところであった。

  • 森川すいめい: その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――

    森川すいめい: その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――
    その町のことは、私も知っていた。自殺でなくなる人が少ないという徳島県の海部町(旧)のことは、資料や写真を交えて知識はあった。 だが、この本で語られていることは、著者が実際に体験して、合点した思いであって、データよりも一層分かりやすく、意味がくみ取りやすい。本書は、日本の自殺でなくなる人が少ないという五か所六回にわたる旅の体験をまとめたものである。結局は生きやすいということはどういうことかということを体験的に分かっていく過程が述べられている。そして、フィンランドでのオープンダイアローグ研修の経験も交えて、自殺希少地域で得た結論をまとめている(かっこは、オープンダイアローグ対話の原則)。①困っている人がいたら、今、助ける(即時に助ける)②人と人との関係は疎で多(ソーシャルネットワークの見方)。③意志決定は現場で行う(柔軟かつ機動的に)④この地域の人達は見て見ぬふりができない(責任の所在の明確化)⑤解決するまでかかわり続ける(心理的つながりの連続性)⑥なるようになる。なるようにしかならない。(不確かさに耐える/寛容)⑦相手は変えられない。変えられるのは自分(対話主義) 「この島の人たちはひとの話を聞かない」というのは、「自分をしっかり持っていて、それを回りもしっかり受け止めている」という地域であるらしい。「助け合わない」とは「助けっぱなし、助けられっぱなし」という意味らしい。できる人が助ける。必要な人は助けられるでよいなら、お礼も気配りもいらなくて、生きやすいと思う。著者は、世界45の国をバックパッカーで旅した人であり、現役の精神科医であり、路上生活者の伴走者でもある人。読みたい精神科医(作家)がまた一人増えた。柔軟な筆致に心が緩む体験をした。ちなみに私の生まれたところ(半農半漁の寒村)もそんなところであった。

  • 渡辺一枝: 聞き書き 南相馬

    渡辺一枝: 聞き書き 南相馬
    著者は保育士として暮らした後、チベットに行き続けて、『私のチベット紀行』集英社や『チベットを馬で行く』文春文庫などの著書で知られている。だが東日本大震災の後、福島県南相馬市のビジネスホテルを拠点にして、その地の人達と一緒にボランティア活動を続けて来られた。そのことを私は知らなかった。私もずっと行き続けていたけど、接点がなかった。それも一つの現実なのだと思う。この本は2011年発災以来の南相馬の地で、活動をされて来て出会った人々から届いた言葉をまとめたもの。「聞き書き」とタイトルにあるのでフィールドワークのように、意識して聞かれたこともあり、読んでみると、活動の中で拾ったり、届いたりした現地の人々の声を編集したものでもある。著者が定宿にしていたビジネスホテル六角は《原発事故から命と健康を守る会》という現地ボランティアグループの拠点でもあったとのことで、この本では住民の皆さんの放射能への思いが遠慮のない言葉で紹介されている。「ここで生きると決めたからには私は笑っていきます」という言葉が胸に染みる。また、「引き裂かれたコミュニティ」というタイトルの文では、放射能事故がもたらした賠償という問題もリアルに描かれている。この本の中では、お寺の住職さんや、ずっとお会いして来たT子さんなど私も親しい人達も登場していて、接点のなかった著者だけど、なぜか親しく感じた。原発事故の影響を受けながら暮らし続けている(9年という長い間になくなった方々の声も)庶民の思いをまとめた貴重な本と思う。

  • 帚木 蓬生: ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)

    帚木 蓬生: ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)
    世はポジティブ流行り。心理学の世界でも台頭しているポジティブ心理学。でも、どうしてもそちらに針が向かない時もある。そんな時に、ネガティブであることを、持ち続けることがとても大切だと思う中で、出会ったこの本。「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、この本によると、夭折したイギリスの詩人ジョン・キーツが、シェイクスピアに傾倒して、その本質を探っている時に見付けた言葉だそう。彼はシェイクスピアがネガティブ・ケイパビリティを有していたと、弟宛の手紙に書いている。「それは事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」であると述べていたという。シェイクスピアが、その態度であるからこそ、あれらの悲劇、喜劇を書くことができたということだそうだ。日本では紫式部と『源氏物語』が取り上げられている。ネガティブケイパビリティ(その思いと能力)があるからこそ、シェイクスピアが生み出した人間ドラマや源氏物語で語られる愛憎の真実が長い時を経ても人々に伝わると述べられている。精神科医であり、作家である作者の述べたい思いに共感した。カウンセリングの現場では、私の思いが大切であるときもあるが、その場に私がいなくて、ネガティブ・ケイパビリティだけが漂っているというような思いをすることも多い。易経で凶をいただくときに、そのメッセージを保持し続ける態度も、共通するものがありそう。

  • 長谷川 博: アホウドリからオキノタユウへ

    長谷川 博: アホウドリからオキノタユウへ
    この優雅な鳥をアホウドリと呼んではいけない。オキノタユウと呼びましょうという、著者の主張です。全面的に賛成!アホウドリとは人間の手前勝手な呼び名です。 著者からこの本が送られてきました。ゾクゾクします。ずうっと以前にに「アホウドリ基金」に少しだけ寄付しただけなのに、ずっとご著書を送っていただいているのです。人生を鳥島のアルバトロス(アホウドリ改めオキノタユウ)復活に捧げた長谷川博さんの新著です。ずうっとなさってきたことをおッかけてきた、読者やテレビなどの報道で知っている方にも、この本は新しい見方を提供すると思います。第5章のオキノタユウの生活は観察を続けてきた著者ならではの視点で彼らの生活が生々しくリアルに描かれています。まるで眼前でみているかのように。もし次回があるなら、鳥島クルーズに参加したいです。 海洋汚染の現況と、もし人間が海をきれいにしようと決意するならそれは実現する!という力強いメッセージも受けとりました。今までの著作を読んでこられた方にもおすすめです。

  • 正子, 半田, 奉枝, 畑: いつかの涙を光にかえて―統合失調症の兄とトイピアノ

    正子, 半田, 奉枝, 畑: いつかの涙を光にかえて―統合失調症の兄とトイピアノ
    福島の図書館脇のカフェのテーブルに置いてあった本。偶然手に取って時間を忘れて読みました。読みながら涙があふれるのを抑えることができませんでした。作者は統合失調症の兄を持つ、音楽家兼コンサートなどを手掛けるプロデューサーです。作者の思いが綴られた地の文と、ところどころに挿し挟まれた詩と、素晴らしい挿絵とが相まって、まるで音楽が聞こえるような本です。この本に詰まった「光」を私のつたない文章でお届けすることは難しい。描かれている兄の発症当時の家族の辛苦、お母さんの母としての強さにも涙です。多感な少女が受けた大きな傷つきと反発するバネのような力にも共感しました。当事者家族だからこそ描ける内面の嵐です。作者は音楽(ピアノ演奏)を通して、故郷(私も同郷・愛媛県)から遠く離れた地で、家族を振りきるような形で自立して行きます。やがて、家族を支えた母の病気と死。喪失感から音楽を失いそうになった時に出会ったトイピアノ。そのおもちゃのピアノに兄が魅せられたのです。兄の自由律の即興演奏の素晴らしさ。「これは光。光の音だ。」と感じ、「幻覚や妄想に悩まされ続け、それでも一人耐えてきた兄の長い時間を思った」とあります。トイピアノの奏でる音楽の中で、作者は兄の真実に触れたのです。「兄ちゃんごめんね。…本当にしんどかったやろ」と作者。兄からも「奉枝(ともえ)のこと、自分ずいぶんいじめたりしたろう?兄ちゃんのこと恨んどるやろな…ごめんな…」と言葉があり、まだまだ症状がありながらも、兄は毎日トイピアノで即興演奏し、録音し、ボイスメッセージも入れて作者の元に送って来るようになります。兄と妹のわかり合いばかりではありません。物語のエピローグには80代半ばの父の生き甲斐が家族会の活動になっていることがさらりと紹介されています。暴力の被害を受けた人の再生、家族の再生の物語。そして何よりも、病を生きる当事者の苦しみと尊厳が感じ取られます。思春期に発症することが多い、統合失調症という病気について私を含め知らないことが多すぎます。若い人にも読んで欲しいです。ただただ恐ろしいもののように思われているので「家族の秘密」にしてしまいがちの社会です。病と共生できる社会になることを願っています。良い本に巡り合いました。

  • Fries,Kenny, フリース,ケニー, 正孝, 古畑: マイノリティが見た神々の国・日本―障害者、LGBT、HIV患者、そしてガイジンの目から

    Fries,Kenny, フリース,ケニー, 正孝, 古畑: マイノリティが見た神々の国・日本―障害者、LGBT、HIV患者、そしてガイジンの目から
     著者は、詩人であり、身体的な障害を持ち、性志向はゲイであり、HIVの患者であり、そして日本の国に暮らせばガイジンであるという何重ものマイノリティ性をもって日本の障害者事情についての研究をするために来日した。著者の言葉によれば「日本で障害者であるということはどういうことか」という疑問の解決のために。タイトルの「神々の国」は異文化から日本を観察したラフカディオ・ハーンの『知られぬ日本の面影』の中の『神々の国の首都」からとられているのであろう。そう言えば、ハーン(小泉八雲)も片眼がない人であった。松江の朝について書かれた場面は今も私の脳裏に浮かぶ。  この本に書かれていることは何重もに入れ子になっていて、または多重の意味を持っている。例えばゲイの人達が如何にパートナーを愛しているかが切々と伝わり、LGBTを理解することのできる最良の一冊と思う。著者の「同性を愛する」という生き方が、リアルに進行する恋人とのやり取りで、まるで小説を読み、映画を見ているように伝わってくる。そして近年、言及されることは少なくなっているがHIVに感染し発症した患者であるということは?ということについても生々しくリアルに述べられている。  障害に関する文化という側面では、花田春兆氏がつとに言及されている蛭子神話や七福神について述べられている事象が改めて取り上げられている。障害のある人を神として祀るということ。古く日本書紀に登場している蛭児は、中世にはえびす信仰としてよみがえっていることなど、日本における障害者理解の古層について改めて考えさせられた。  それ以上に詩人である著者ケニーさんの感性が受け止めた日本の姿が新鮮で生き生きと伝わる。言葉の力がすごい。一気に読めたが多重の意味を与えられた言葉、または石庭のように、極限まで圧縮された言葉によって描かれた世界を十分に味わうにはまだまだ読みが浅い。再読したい。

  • 小林美津江, 近澤優衣: ぼくの家はかえで荘 (LLブック)

    小林美津江, 近澤優衣: ぼくの家はかえで荘 (LLブック)
    虐待を受けた子どもが主人公です。「「ぼくは、お母さんと、かっちゃんという男の人と3人でくらしていましたが、ある日家でかっちゃんになぐられました。おでこから血がでました。でもぼくは、そのまま学校にいきました。学校の先生がびっくりしました。病院で6針ぬいました。先生が子どもセンターに電話して、子どもセンターの人が学校に来ました。子どもセンターの人は『しばらくかえで荘という子どもの施設でくらしましょう。』と言いました。かえで荘は山の中に離れてくらす子どもが住んでいました。そこでは、楽しい行事もあるし、職員の人や心理士の人ともたくさん話します。ある日かっちゃんはお父さんになる手続きをしましたが、ぼくはあの家では暮らしたくないのでかえで荘に残りました。クリスマス頃にはお母さんはかっちゃんと離婚したので、『お母さんにまた会えるようになります』と子どもセンターの人が言いに来ました。ぼくはお母さんに会いたいです。でもあの家に帰りたくないです。しばらくかえで荘で暮らします。」という内容の本文ですが、漢字にルビがふってあるだけでなく、ピクトグラムという絵文字でも簡略に内容がわかるように表現されています。この本はLLブック(やさしくよめる本)として作られています。読み障害や知的障害のある子どもにもわかりやすく読めます。  かえで荘は「障がい害児入所施設」という設定です。知的な面や情緒の面でも発達的な障害がみられる子どもが虐待を受けることが多いと言われています。その子どもたちが、自分が受けた心の傷を癒し、置かれた状況を理解しながら、自分がどうしたいか主体的に考え生きていけるようにするには、施設入所ということは権利であり、サポートでもあります。施設の職員や心理職などの大人の支援を受けて長期的に育ち直しをする場所でもあります。このような知識や励ましが必要な子どもは、現在はとても多く存在していると思われます。子どもに関わる人に読んでほしいです。

  • Wolk,Lauren, ウォーク,ローレン, はるの, 中井, 玲子, 中井川: この海を越えれば、わたしは

    Wolk,Lauren, ウォーク,ローレン, はるの, 中井, 玲子, 中井川: この海を越えれば、わたしは
    舞台はアメリカマサチューセッツ州のエリザベス諸島、カティハンク島の隣にある小島(干潮時には歩いてカティハンク島に渡れる)。日本人には、島の名前だけではイメージが湧かないがエリザベス諸島は富裕層も休暇を楽しみに来るところらしい。 時は1920年代。その島に暮らすクロウと言う名の少女は、自分の出自を知らない。小舟に流されて来たらしい。拾って育ててくれたオッシュという男と二人で住んでいる。そこに時々訪問してきて教育を授けてくれるミス・マギーと言う女性。3人の島の暮らしが魅力的に語られている。それだけでも、島好き、旅好きの方にはおすすめ。YA文学(青少年向け)ですが、大人も楽しめる。 クロウは島の学校に行くと、校長先生に拒否される。校長先生はドアノブまで消毒している。島の人たちもクロウを避けていて、どうやら恐れてもいるらしい。そのわけは、クロウは、この島の沖合にあるペキニーズ島(かつてハンセン病患者の療養所があった場所)から来たのではないかと思われているからのようだ。20年代当時は不治の病としてそして感染力が強いとして世界中で隔離政策がとられていた(本当は治る病、薬もあるし感染力も弱い、しかしそのことは書かれていない。20年代だから)そのペニキース島に灯る火を見つけたクロウは島に行くことを決意する。現在は療養所は閉鎖されて無人島のはずなのに、いったい何があるのか?自分が噂されているように本当に島から来たのかどうか、行ってみて調べたいという強い思いに、オッシュとマギーも心配で同行する。ここからは波乱万丈、手に汗握る冒険譚。ペニキース島に暮らした患者や看護師などの思いも丁寧に描かれている。ハンセン病を知らない現代のティーンにも理解が進むようにと描かれている。その上、ストーリーには…キャプテン・クックだの悪漢だの、嵐だの興奮要素満載。昨今の海外YAは楽しく読んで、障害や環境への理解が深まるような工夫のあるものが多い。

  • ブレイディ みかこ: ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

    ブレイディ みかこ: ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
    日本に住んでいると、皮膚の色で自分のアイデンティティを考えない人が多い。でもイギリスに住んでいれば、そうはいかない。皮膚の色ばかりではなく、出身地、家族構成、住まいする場所、宗教、あらゆるところに差異があり、その差異が差別を生む。現代イギリスの社会構造について無知でした。作者は、日本人でアイルランド人のパートナーとの間に、男の子がいて、イギリスに住んでいる。この息子さんを育てる過程で遭遇した、イギリス社会の多様性がテーマです。息子「多様性っていいことなんでしょ?学校でそう教わったけど」母「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃない方が楽よ」と母は息子に語ります。「楽じゃないものが、どうしていいの?」「楽ばかりしていると無知になるから」と母は答えます。そうか!無知か!と納得します。著者は、差別やヘイトを憎み糾弾する側に立ちません。無知ゆえに起こること。蒙を啓くしかないのですね。本当に無知蒙昧の自分に出会いながら、鱗を一枚一枚はがして行くような読書体験でした。真面目で優等生の「ぼく」だけど、日本式の真面目ではありません。生きることに対して真面目で、痛快な中学男子の思いを母が掬い取って語ります。「多様性っていいことだから」と気楽に使う言葉ではないなあ。違いを認め合って、違いを生きるってなかなかにおお仕事だなあ、と読後の思いでした。

  • 竹下 大学: 日本の品種はすごい-うまい植物をめぐる物語 (中公新書 (2572))

    竹下 大学: 日本の品種はすごい-うまい植物をめぐる物語 (中公新書 (2572))
    野菜や果物の品種改良をめぐる物語。前に紹介した宙くんの本の流れで、この本を手に取ってみた。最初は書名の『日本の品種はすごい』にちょっと引っかかって、なんでもかんでも「日本すごい」にもっていっている風潮に乗じたタイトルと思ったけど、読み終わると納得。日本人の口に合う美味しさ×作りやすさ×多収量を求める品種改良の歴史を紹介する本である。本書の言葉では、早い、安い、うまい(上手さ)を紹介しながら、日常の食にまつわる蘊蓄が満載で、楽しく読めた。へえ!いいね!の繰り返しの読書体験。植物としてはジャガイモ、ナシ、リンゴ、カブ、ダイコン、ワサビの物語。登場人物は古今東西のブリーダーと呼ばれる品種改良を担う人達のなんといってもあきらめない探究精神が尊い。ダイズの章では、和食に欠かせない味噌、醤油、豆腐の原材料であるこの作物が、アメリカの意のままに、輸入自由化、関税撤廃、国内産地壊滅となってしまい、アメリカからの輸入が約7割を占めていて、なんと国産大豆の自給率は1994年には2%まで下がってしまったという行には衝撃を受けた。現在少し持ち直していてもまだ7%だそうだ。それでも田中角栄首相や土光経団連会長などがアメリカの意のままに操られないでダイズ確保のためブラジルの大地にダイズ栽培をゆだねたという遠大な戦略を読むと、まさに食糧戦争という言葉が思い浮かび、『日本の品種はすごい』という書名に納得した。トランプ大統領の関税脅しで、暫定合意。車を守って、農産物を手放すのでよいのか?私たち消費者は安ければそれでよいのか?と問われていると改めて思った。個々のエピソードでは友人のサイエンスさんが北陸に住み、手製のかぶら寿司を頂戴するので、かぶら寿司用の品種改良の話にもわくわくした。

  • 小林 宙: タネの未来 僕が15歳でタネの会社を起業したわけ

    小林 宙: タネの未来 僕が15歳でタネの会社を起業したわけ
    全国ほとんどすべての小学校1年生が、生活科でアサガオの栽培をする。ずっと以前教科が理科といっていた時代から。宙(そら)君は来年もきれいな花を咲かせようと大事に種をとっておいて、次の年に植えたのに、去年と同じような大輪の朝顔は育たなかった。とてもがっかりしてどうしてだろう?と悩んだり考えたりしたのが、15歳で「伝統野菜のタネの会社」を起業した原点だった。同じような疑問は多くの子どもが持つかもしれないが、その疑問を育てる人はあまりいない。その小さな科学のタネを育てて、タネの会社にまで育てたところに感動する。知ってるようで知らないタネの話。勝手にタネを採ってはいけない。FI(種苗会社が品種改良したものは、種苗会社の権利がある)品種の話くらいは知っていたとしても、種子法だの種苗法だのでがんじがらめの種と野菜をめぐる現実のほとんどは私たち野菜を食べる人にとって興味の外の世界。とってもレアな本である。ほとんど知らない世界だったけど、16歳の宙君が同じ年頃の仲間に語る口調で描かれているので、読みやすい。自分に関係ない世界ではないのだと分かる。宙君の会社は、「鶴鶏種苗流通プロモーション」という、これまたとても珍しい名前の会社。自分で全国を巡って伝統野菜の種を仕入れてきて販売、流通させるのが会社の使命という。読後に、「タネ」というものの持つ、本来的なふくらみに思いを馳せた。野菜のタネは過去から来て(何万年もの間をかけて品種改良し味や形を固定したものが野菜)、これから何万年もの先の未来につながる。タネは過去に属しながら、本質的に未来そのもの。アサガオやドングリの種集めに凝っていた少年が育てた大きな世界を垣間見せていただいた。とことん追究することの素晴らしさが詰まっている。

  • アンジー・トーマス: ザ・ヘイト・ユー・ギヴ あなたがくれた憎しみ (海外文学コレクション)

    アンジー・トーマス: ザ・ヘイト・ユー・ギヴ あなたがくれた憎しみ (海外文学コレクション)
    物語はギャングが跋扈するゲットー(スラム街などの貧困地区)が舞台。女子高生スターは白人の多い高校に通っている黒人の少女。10歳の時友達が目の前で殺された辛い体験があるから、親は郊外の学費の高い私立に転校させた。殺されることのないようにと。でも16歳の今、またしても幼馴染の大切な友達カリルが目の前で、白人警官にピストルで撃たれて死んだ。スターははじめ、目撃者だということさえ名乗れない。心の傷の痛みがひどいから。一方初めのうちは警察の言い分だけが大きく報道され、カリルは殺された上にさらに凌辱される。カリルは学校を中退して、麻薬を売っているような少年だから、警官に殺されて当然という報道に、勇気を振り絞って目撃した状況について語り始める。「カリル、わたしは決して忘れない。決して諦めない。決して口をつぐんだりしない」と物語は締めくくられる。ヤングYA世代向けの本だが、大人が読んでも深くこころに残る。表題について文中ではカリルの語りとして「パックは、Thug Life ってのは、"The Hate U Give Little Infants Fucks Everybody"〈子供に植え付けた憎しみが社会に牙をむく〉の略だと言っているんだ」カリルが尊敬しているラッパーの2パックの言葉が紹介されている。そういった文化に疎いくんぷうだけど、この言葉やラッパー文化の根っこが本作を読んで少しわかった気がした。

  • 責任編集 熊谷晋一郎: 当事者研究をはじめよう (臨床心理学 増刊第11号)

    責任編集 熊谷晋一郎: 当事者研究をはじめよう (臨床心理学 増刊第11号)
    届いたばかりの雑誌を一気読みしました。 この本で取り上げられている当事者とは、アルコール依存症、薬物依存症、身体障害(難病)、発達障害、摂食障害などの環境からくる困りごとや、主体としての生きづらさを抱えている人達です。著者の多くは当事者であり、回復者であり、支援者であり、研究者であり、発言能力の高い人々です。セルフヘルプ(自助グループ)といわず「研究」ということで、自分の困りごとが外在化され、また研究は他者と共有でき、発信できるので力の回復になるのかと思います。当事者研究を身近なところで身近な仲間たちと始められるとよいですね。そのために「当事者研究をはじめよう」と呼びかけている今号です。『臨床心理学増刊』という心理学の専門雑誌が『みんなの当事者研究』『当事者研究と専門知』と特集を組み今回第3弾が最終回とのこと。3号続けて読んで、今号の読後感想は、議論されていることはもっともだけど、皆さんが知的能力の高い人達。先往く人として道を拓いていってほしいですが、そこにたどり着けない地べたを這うような人々の存在を忘れてはいけないと思いました。そのような多重の苦しみを抱えた方とカウンセリングしたり(くんぷうのカウンセリングは安いです)、幼児保育や教育の現場で出会ったり、また障害に関する本を仲間で読みあったりする中で培ったおもいです。 さて、自分自身のこと。25年前に地元でセルフヘルプグループ(自助グループ)を小人数で始めました。その時の主旨は「私のことは私が当事者」ということでした。家族や仕事の問題に悩みながらも、まずはこの自分。私自身を私が助けようということでした。もし、そこを深く掘り下げていったら、○○障害であったり、○○依存症であったりする自分や家族がいたかもしれません。当事者研究という言葉に深く惹かれるものがあるのは、そのせいなのかと思います。

  • ドリアン助川: 線量計と奥の細道

    ドリアン助川: 線量計と奥の細道
    昨年のうちに読んでいたのに、取り上げるのが遅くなりました。書こう書こうと思っているので、常に作業机の脇に置いてあるんだけど、いつも慌ただしくて丁寧に文が書けない気分なのです。 『山海記(せんがいき)』同様に紀行文学の流れを汲みながら、3・11を刻印づけて後世に残る作品になるのではと思います。2018年に出版されましたが、作者が奥の細道をたどる自転車の旅をしたのは2012年8月からです。そうです、震災の次の年。まだ原発事故の恐ろしさが人々の生活の中に生々しく残っているとき。その時に思い立って、線量計を自転車のハンドルに付けたバッグに入れて、芭蕉がたどった道を江戸から陸奥(みちのく)へ、ぐるっと回って北陸から琵琶湖、関ヶ原、桑名までの旅です。道中の歌枕や史跡の名称を一つ一つ挙げると、なにかしら懐かしく思ってしまう私たちです。芭蕉も先人たちの歌枕を追って旅しました。ドリアンさんはその芭蕉を追いかけながら、震災から1年半の道を自転車単独行で旅したのです。那須の農場で、線量を書くことが良いのかどうか悩みます。子ども達の施設の傍らに、除染したという放射能まみれの土がブルーシートにただ覆われているだけで放置されている現状に戦慄します。福島のこと、あれこれ読んだり聞いたりしてきましたけど、この本で描かれている光景の多くはしりませんでした。それは、それぞれ独自で単一の日常の生活空間の中で、旅をしながら出会っていった現実なのです。また、旅をしたのが12年、上梓されたのは18年。作中にも書かれていますが、どこそこが何マイクロシーベルトだと記すには相当のためらいがあったことでしょう。今でも風評被害が言われています。(風評どころでない生活を侵害されている被害が現実に続いています)福島に関わりたくない、もう考えたくもないという人々が多く存在している(そのように持って行かれた)こともまた現実です。出版されて、この本を手にすることができて良かったと思います。 この本はでも、放射能事故後の現実を知らせるためだけに書かれた本ではないと思います。詩人の感性がその現実の中の旅を欲していた。芭蕉だったらどう見るか、どう旅するか?そこを体験したかったのではないでしょうか? 旅の面白さ、旅で出会う人々との交流の面白さを存分に味わえます。随所で「ドリアンさん、いい人だなあ。ドリアンさんの友達いいなあ」とほっこりします。この旅を追いかけてみたいと思います。ドリアン助川は、やはり西行や芭蕉に連なる歌詠み人だなあ。

  • 佐伯 一麦: 山海記

    佐伯 一麦: 山海記
    日本一長い路線バスの旅のエッセイ?と思いきや、登場人物「彼」を主人公にした物語?かもしれない。どこまでがリアルな旅の記録なのか、どこにフィクションが挟まっているのか?私はまるで、作者が「彼」のように思え、なおかつ彼のバス旅に同行している気分で読んだ。実は大和八木から新宮に至るこのバス路線の旅に以前からあこがれていて、いつか近い将来に必ず行くと思い定めていたルートであったからでもあり、主人公の旅の動機が、東日本大震災とその年に起った紀伊半島の大水害の記憶を遡る旅でもあったからでもある。「彼」は、青年時代からの親友の死を受け入れがたく、なぜか水害が刻印されている奈良県十津川沿いの路線バスの旅に出る。あの大震災の時、仙台で被災し直接津波の影響は受けなかったものの、生活の上では大きな被災であった。日本人と災害について思考を巡らせているうちに、この路線にたどり着く。思いが旅を呼ぶというしくみは、芭蕉、西行を思い起すまでもなく、この列島に暮らすある種の人間の根っこの部分に組み込まれているようにおもう。淡々とバス停の地名とその土地の(十津川の水害、北海道への移民、天誅組、南朝などの)人々の生活や歴史と、バスに乗り合わせた乗客や運転手の動向が描かれてきた作品は、ちょうど路線の半ばにさしかかる谷瀬のつり橋でクライマックスに至る。つり橋の揺らぎの中で受け入れることができなかった友人の死を受け入れ、そして自分自身の受け入れがたい被虐待の記憶が重なってくる。…こんな紹介をしていたら、何文字かいてもこの本の真実にいたらない。作品は(バスの旅)は、唐突に中断される。きっと続きが書かれているだろうと期待している。その作品にならって、私もここで中断しよう。土地と時間と気象の深い絡まりの中で、人は生きている。書くことと旅することのなんと深い世界だろうか。

  • 木ノ戸昌幸: まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験

    木ノ戸昌幸: まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験
    この本は障害福祉に関する団体NPO法人「スウィング」の活動の記録であり、世に投げかけられた挑戦状でもあります。障害者と呼ばれる人たちの飾らない本音丸出しの生き方・働き方を紹介しています。「スウィング」メンバーの詩が素敵です。座談会も面白い。活動もユニークです。編著者は法人代表の若者。子供の時から、親の期待・教師の期待・自分自身の期待にがんじがらめになり、窮屈に生きてきて追い詰められてしまった著者は、22歳の時に、「大学生の不登校を考えるシンポジウム」に参加して自分自身の「生きづらさ」に正面から向かい合うようになりました。就職はしないと決めて様々な活動をする中で友人から「毎日笑えるよ」と声をかけられて「障害福祉」と呼ばれる世界に呼び込まれます。NPOとして活動を作り上げていく過程が面白い。この本を読むと、障害者と呼ばれる人たちの常識に合わせて生きることのできなさが、反転して常識に縛られない圧倒的な自由さと感じることができます。「この本のどこかしこに、散りばめられた金言、箴言、詩の言葉、はては戯言。読みながら、「え!そうなの?」と常識にひびが入り、「そうそう。そうなんだよね」と共感し、「え、そんなでいいの?それなら楽だよね」と自分も緩んでいく。そんな体験をしました。なにをくよくよ悩んで、日々を回していくのに疲れ果てているの‼「スウィング」さんの生き方を見らないましょうよと、読書中には思ったものでした。でも、読後4日目、常識の力は侮れません。まだまだ縛られていますが、作中に挟まれたたくさんの写真を思い浮かべて、私も揺れて、緩んで暮らしたいと思ったり思わなかったり。

  • 東畑 開人: 野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

    東畑 開人: 野の医者は笑う: 心の治療とは何か?
    この本を見つけたときは、興奮しました。私と同じようなことを考えている人がいる!でもって語り口もフィールドワークの対象となっている沖縄のヒーリング&セラピー界隈の事情も面白くて一気読みしました。科学的なお墨付きを得ていない方法で癒しに関わっている人達を「野の医者」と定義して、癒しの施療を受けながら、実地調査した(どこかからの助成金で)成果物としてまとめた本です(論文もどこかにあるでしょうけど、この1冊で十分です)読み終えて心に残ったことは、野の医者は傷ついたヒーラーであるということ。当たり前の話です。医者も看護師も心理士もそういった人が多いですし、私自身もそうです。本文でも、フロイトやユングにもふれられています。そうは言いながら、経済論理が大きくありようを決めていることが述べられています。「経済的に豊かになるために開業した」と書かれている野の医者さん達ですが、ちゃんとした就職口を得るために臨床心理士になる人とどこが違うのでしょうね?沖縄のユタの癒しについては踏み込んでいません。心に残ったのは自由な発想でプリコラージュした技法の面白さです。野の医者業界の古参の人たちには、河合隼雄さんの影響が残っているという点も面白かった。 著者は臨床心理士で、大学でも教えていらっしゃいますし、東京の一等地でセラピールームを開いてもいらっしゃるようですから、私からみたら野の医者とはとても言えない方ですが、お金さえかければアクセスできるというのは野の医者業界に近い在り方かもしれません。京都大学で臨床心理学を修められた正統派セラピストです。読み終えて、この本に出合った時の興奮は冷めていました。科学的と定義することのむなしさが残っています。

  • 津田 真人: 「ポリヴェーガル理論」を読む -からだ・こころ・社会-

    津田 真人: 「ポリヴェーガル理論」を読む -からだ・こころ・社会-
    最近のニュースに接すると、個人が「自分のからだとこころと社会」につながることを失ってしまった現代社会の悲劇のように思えて、関係者どなたにも痛ましい思いが湧きます。そういった現代日本の社会にシンクロ的に「今でしょ」としてこの本が上梓されたと思います。届いたばかりの新しい本を紹介します。1年をかけて読めたらよいなあと思います。著者は社会学を研究した学究ですが、鍼灸・あんま・マッサージ師、精神保健福祉士、ゲシュタルトセラピストなど複数の顔を持つ現代随一の治療家です。副題に「こころ・からだ・社会」とあるように、からだやこころを元気にするために社会(3者性のつながり)まで視野に入れて関わることの重要性と意味を、この本でつたえてくれていると思います。まだ、〈凡例〉と〈はじめに〉しか読んでいないのですが、わくわくしています。複雑で難解な「ポリヴェーガル(多重迷走神経)理論」はトラウマやストレスの治療には欠かせない手がかりを与えてくれるものとして世界中から注目されています。ストレスの「逃げるか戦うか反応」以外に第3の反応として、フリーズ反応があるということ、それをどう扱うかという視点を生物の脳の進化を背景にした神経理論として伝えてくれているのです。今、カウンセリングの中でも「フリーズ≒解離」を扱わないでは進まないケースが多いです。その難解な理論を著者がどう読み解いたのか、どう解釈してこれからの治療や社会につなげていくのか、難しいのに(聞きなれない専門用語が多い)、すらすらと読み進めて行けそうです。著者が面白がりながら、誠実に読み解いていくその頭の活動をすべて文字に起こしてくださったような本です。ワクワク感が伝染しそうで楽しみです。

  • 東山 彰良: 僕が殺した人と僕を殺した人

    東山 彰良: 僕が殺した人と僕を殺した人
    「1984年。私たちは13歳だった。」台湾を舞台にした3人の少年たちの友情と、30年後の連続殺人事件。描かれた少年たちも取り巻く大人たちも、街の風景も南国の熱風に蒸されたように熱い。この作家の書く濃密な人間関係と活気に惹かれて、私は、読む。ほとんど一気読みに近い、疾走感がたまらない。サスペンスドラマは見ないんだけど…。読者の脳内に映像が流れる。もうすっかり日本の暮らしからは失われてしまった、互いに深くかかわりあう関係性に郷愁を覚える。

  • ドリアン助川: 新宿の猫

    ドリアン助川: 新宿の猫
    僕は、色弱であることを理由に希望するマスコミや映像業・広告の業界からは「色覚異常受験不可」で門前払いをされ、アルバイトしながら食いつないでいた。テレビのバラエティ番組の構成作家に拾われて見習いとしての修業を始めたけど、世間と相いれない気持ちも出てきて落ち着かない。唯一、新宿ゴールデン街の古くて狭いバーで、ホッピーを飲みながら、「猫じゃん」というギャンブルに興じている仲間たちと、猫の家族図を描いたアルバイトの女の子夢ちゃんと過ごす時間には、ヒリヒリした気分から解放され落ち着ける。新宿という町と猫たちへの愛があふれ、夢ちゃんと僕とのエレジー。挿入詩が平易な言葉で奥深い。猫好きにはたまらない。

  • 池上 英子: 自閉症という知性 (NHK出版新書 580)

    池上 英子: 自閉症という知性 (NHK出版新書 580)
    自閉症と言う言葉で印象付けられたイメージってどんなものでしょう?コミュニケーションが苦手?感覚が過敏?こだわりがある?想像力の障害がある?そんなマイナスイメージと共に、障害があって生きづらさを抱えていて、少数派であることにつらい思いをしている人っていうような社会的弱者なイメージを持っている人も多いかと思います。この本を読むと、そんな世間一般の自閉症当事者の「かわいそうな人」イメージが、一方的な見方でしかないことに気づかされます。視覚優位な認知特性を持つ人や、聴覚や嗅覚などの感受性の強い人たちの脳内奥深くで繰り広げられる、この世界の把握の仕方、知性の発露の仕方がどんなに広くて深いか、日米の事例を通して描かれています。カウンセリングや発達支援の現場で日々に出会う大人や子どもさんの姿を思い浮かべながら読みました。日本語で書かれた本ですが、著者はニューヨーク在住の社会学者。

  • 寺澤 捷年: 和漢診療学――あたらしい漢方 (岩波新書)

    寺澤 捷年: 和漢診療学――あたらしい漢方 (岩波新書)
    西洋医学で神経内科学や中枢神経解剖学を修めた著者は、一方で若いころから身近であった漢方医学も研究してきた。アナログの漢方医学(とデジタル(心身二元論)の西洋医学を融合させた医学を「和漢診療学」という体系で実践と研究をされてきた。その集大成をこれから医学を志す若者に伝えたいとの志で編まれたこの新書。圧巻は、西洋医学では不定愁訴としてしか扱われなかった、でも患者にとっては辛い様々な症例を漢方薬で軽くして行く症例報告と最先端の脳神経科学や薬理学で裏打ちされた解説が併せて述べられているところである。糖尿病や高血圧などストレス性の数々の症状について納得がいく。読んでもよくわからないのは、漢方、処方と言う時の方、とその人の体の状態を証としてみる方証相対論という部分である。勝手に薬局に行って何とかという漢方薬を買うのではいけないな、今度漢方医にかかってみようと思い立った。明治維新に捨ててきた数々の文化的な知恵や知見の大切さが実感された。温故知新、素晴らしい哉。

  • 濱口 瑛士: 書くことと描くこと -ディスレクシアだからこそできること-

    濱口 瑛士: 書くことと描くこと -ディスレクシアだからこそできること-
    著者は、東大先端研の「異才発掘プロジェクトROCKET]第1期スカラー生。ディスレクシア(読み書き障害)であった彼にとって、学校生活はどんなにか苦しかったことでしょう。音読と漢字テストが日常風景で、できないとみんなの前で馬鹿にされる。何より本人が苦痛を感じているのに、誰もその苦痛に配慮しない。今も日本中で苦しむ人たちがいることに気づいていきたい。本書は、12歳の時に「黒板に描けなかった夢~12歳学校からはみ出した少年画家の内なる世界」を世に問うた著者の2冊目の画集。第1部「書けなくたって、よめなくたって」で描かれたディスレクシアの世界、素晴らしいです。よーく伝わります。「そうだったのか!」。第2部の作品集。癒されます。不思議な味わい。繰り返しの多い、しかし丁寧な筆致で柔らく描かれた瑛士ワールド。特別付録児童憲章をカタチに。この本は図書館の7(芸術)の棚にありました。絵本として出版して、子どもやヤングの棚に並べてほしい。

  • 安田 菜津紀: しあわせの牛乳 (ポプラ社ノンフィクション―生きかた)

    安田 菜津紀: しあわせの牛乳 (ポプラ社ノンフィクション―生きかた)
    岩手県岩泉市にある中洞(なかほら)牧場は、日本では珍しい完全放し飼いの牧場です。この飼い方を山地酪農と言うそうです。森や山の中で自然に育った(手入れはされています。芝や牧草の栽培もされていますが、農薬は使わない。肥料は牛たちの糞とそれを分解してくれる生き物たちの排泄物、落ち葉など)そこでは、牛たちは自由に歩き、遊び、食べ、寝て、水は谷川や池に来て自由に飲みます。子牛はお母さんのおっぱいが飲めます。そんな幸せな暮らしをしている牛たちの牛乳はとても美味しい。濃厚飼料を使わないのでちょっぴり乳脂肪が少ないそう。こんな夢みたいな酪農が実現したのは、中洞さんが小さいころからあこがれていた緑の山地・自然の中で牛を飼うということを実現させるための苦難と工夫があったからなのです。小学校中級から読めます。東京にいて、ここの牛乳飲めるかな?と調べてみたら通販サイトで買えるみたいです。

  • 広瀬 宏之: 発達障害支援のコツ

    広瀬 宏之: 発達障害支援のコツ
    著者は児童精神科医。本書は神奈川LD協会冬のセミナー2018「発達障害を支援するための基本の手引き」の講演録に加筆したものと、あとがきにあります。内容は専門的な最新の知見をもとに、医者やセラピストなどの治療者にも、保育や教育の支援者にも、家族や大人の当事者にもわかりやすいものとなっています。言葉の一つ一つが含蓄があって深いんです。一日1ページ、開いたところを読んで、今日のセラピーに活かしています。例えば「グレーゾーンと言う言葉」では、「グレーゾーンと言う言葉は非常に危険です。支援が必要な人はグレーゾーンではないんです」「グレーゾーンだから支援をしないで様子を見ていて不適応が嵩じていってしまうのが一番避けたいパターンです」とあります。この子(人)にどんな支援が必要なのか見抜く目を持ちたいです。

  • マイケル モーパーゴ: 希望の海へ

    マイケル モーパーゴ: 希望の海へ
    現代イギリス児童文学を代表する作家の作品。背景には、オーストラリアへの強制的な児童移民の歴史がある。第二次世界大戦後の戦災孤児アーサーは訳が分からないままに、オーストラリアに送られた。イギリスを発つ前に孤児院で姉のキティと別れる時一つの鍵を首にかけてもらったことが、自分自身が確かに生まれてきて存在していた、姉もいたという証となっている。この物語は2部仕立てで、前半はアーサーが書き残した自分史ノートの物語。オーストラリアでは、奴隷的な労働が待っていた。悲惨な生活から兄とも慕うマーティと共に逃げ出し、孤児となった野生動物を救済しているメグズおばさんに拾われた。ヨットを作る船大工の仕事をしたり、漁船に乗ったりした後、ベトナム戦争に従軍し心にダメージを受けて帰還した。病院で出会ったクレタ島からの移民を父に持つナースのジータと出会い幸せな家庭を築くまでの物語。第2部はアーサー亡き後、娘のアリー(18歳の少女)が父が作った決して沈まない小型ヨット・キティ4号に乗ってオーストラリアからイギリスまで地球半周の単独航海をする物語。父の鍵を首に幾多の困難をかいくぐりイギリスに到着し、鍵の謎とキティに出会うまでが、現代の物語らしく、メールやインターネットでの情報発信、宇宙飛行士等が登場して物語を支える。モーパーゴの物語は最後までぐいぐいひきつけながら声高ではないが、人の生き方の多様性を伝えて夢中にさせる。ヤングに読んでほしい。

  • ウェスリー キング: ぼくはO・C・ダニエル (鈴木出版の児童文学―この地球を生きる子どもたち)

    ウェスリー キング: ぼくはO・C・ダニエル (鈴木出版の児童文学―この地球を生きる子どもたち)
    この本は、2017年、ミステリー専門のエドガー賞児童図書部門を受賞しました。主人公ダニエルと共に殺人事件かもしれない謎に挑戦してワクワクしながら読み進めていけます。しかし、単純な謎解き物語ではなく、全編を覆っているのは、OCDの症状から逃れられない苦しみです。不安があると寝る前に2時間でも3時間でも儀式と呼ばれる強迫行為をしなければ就眠できないのです。ダニエルが「ザップ」と呼ぶ強迫観念が侵入してきて「○○をしろ。ダメだ。やり直せ」と命令し、ダニエルは手洗いやスイッチのオンオフ、歯磨きなどを繰り返しせざるを得ません。不合理と分かっていても止めることができません。涙を流しながら、し続ける苦悩がリアルに描かれています。作者もこの症状に苦しんだ当事者だそうです。 13歳のダニエルは、アメフトをやっているけど、とても自信がありません。蹴るだけや走るだけならできるのですが、試合でキックをする場面になるととたんに「ザップ」が襲ってくるし・・・。ある時スタメンの少年が怪我をして試合に出ざるを得なくなりました。謎解き、スポーツのヒーロー物語、異性への関心と友情が描かれ、ダニエルが密かに書き続けている「人類最後の子ども」という物語までが挿入されています。これでもかとばかりのエンターテイメント要素の投入です。作者は最後まで読んで欲しかったのですね。 OCDは、「強迫症」とも言われる病気です。子どもの有病率は2%前後とも言われています。この本の扉の裏には「OCDに向き合うあなたへ /ひとりでは見つからない希望も/助けを借りれば、かならず見つかります」と書かれています。ずっと秘密にしていたことを人に話すのには勇気がいります。OCDに苦しむ子どもにも大人にも楽しく読めて、回復への希望をもつきっかけになりそうな本です。OCDを知らない人にもこの病気について理解を深めていってほしいです。

  • エリック ウォルターズ: リバウンド (福音館の単行本)

    エリック ウォルターズ: リバウンド (福音館の単行本)
    これも少し前の児童書です。小学校上級から中学生くらいの人にお薦めですが、大人が読んでも面白いことは受け合います。カナダのある街に転校してきた車いすの少年デ―ヴィッドとバスケ好きの1学年上の少年ショーンのボーイ・ミ―ツ・ボーイの友情物語です。強がっていたデ―ヴィッドの心の奥底の寂しさと辛さに触れて、障害について思いを深めました。ショーンが車椅子体験をする場面もリアルです。

  • 京谷 和幸: 車いすバスケで夢を駆けろ―元Jリーガー京谷和幸の挑戦 (ノンフィクション 知られざる世界)

    京谷 和幸: 車いすバスケで夢を駆けろ―元Jリーガー京谷和幸の挑戦 (ノンフィクション 知られざる世界)
    児童書です。ロンドンパラリンピックの前に出版された古い本ですが、一連のリアルつながりで、読みました。 自動車事故で脊椎損傷を負って下半身はおろか、背筋、腹筋も使えなかったサッカーJリーガーだった選手が、車椅子バスケでスポーツ選手として復活するstoryに子ども達は勇気づけられることでしょう。「夢に向かって行動を起せば、必ず出会いがある」という素的な言葉に出会いました。

  • 井上雄彦 チームリアル 編集: リアル×リオパラリンピック ~井上雄彦、熱狂のリオへ~

    井上雄彦 チームリアル 編集: リアル×リオパラリンピック ~井上雄彦、熱狂のリオへ~
    漫画家井上雄彦と取材チームが、リオ・パラリンピックの車椅子バスケを取材しました。マンガ「リアル」の登場人物たちを絡めながら、現実の試合と選手たちの姿を1冊の本にまとめてくれています。写真が素晴らしい。そして、リアルの原画もあり、選手たちのプロフィールも語りも読みごたえがありました。2020の東京パラりンピックまでに、「リアル」復活を熱望します!

  • 井上 雄彦: リアル 1 (Young jump comics)

    井上 雄彦: リアル 1 (Young jump comics)
    暮れだったか、正月だったか?テレビで車椅子バスケの選手京谷和幸さんの特集を見ました。その粘り強さと目標に取り組む熱さに感動しました。「リアル」のモデルの一人だということが知らされ、さっそくこの漫画を手に入れました。素晴らしい漫画です。劇画中の登場人物の心情と情念が本当にリアルに描かれている。単なるスポーツ根性物語ではないです。登場人物の生き方と個性が迫ってきます。障害に向き合う姿が生々しい。リアルでありながらファンタジーも含んでいて、私はプロレスラー・スコーピオン白鳥に感動しました。プロセスを知らないおばはんを感動させる井上雄彦さんの漫画の迫力!残念ながら14巻までしか描かれていません。続きが読みたい。(息子が古本屋で既刊全て見付けてくれました)。そういえばバガボンドも途中だとか。それも息子に進められ以前に読みましたっけ。スラムダンクは読んでいません。

  • フランシスコ・X.ストーク: マルセロ・イン・ザ・リアルワールド (STAMP BOOKS)

    フランシスコ・X.ストーク: マルセロ・イン・ザ・リアルワールド (STAMP BOOKS)
    この本が出版された2013年に一度読み、今回二度目に読んで、このリストに紹介します。主人公マルセロは弁護士のお父さんと看護師のお母さんを持つ、アスペルガー障害に良く似た症状のある17歳。小学校入学以来、私立でお金がかかる障害児への支援が専門の学校パターソンに通っています。高校の最終学年を控えた夏休み、お父さんは、弁護士事務所というリアルな世界でアルバイトすることを求めます。マルセロはパターソンの農場で生まれたポニーの子馬を世話するアルバイトがしたいのですが、お父さんは強硬です。リアルな世界のアルバイトを成功裏に負えたなら最終学年までパターソンにいて良いと、交換条件を出されてしぶしぶお父さんの事務所で働くことになりました。 マルセロはオフィスの中で、衝撃的な写真に出会います。顔面の半分が削り取られている映像なのに、その子の瞳が強い思いを発して迫ってきます。直属の先輩ジャスミンと一緒にその子を探し出そうとします。ここからはミステリー仕立てですのであまり詳しくは書けません。 マルセロにとってリアルワールドとは、障害があろうとなかろうと、思春期の男性として通過しなければならない世界です。性の芽生えや、異性への関心もテーマです。一方で裁判の中で争われる正義と不正義の交錯する世界もあります。自己の実感に基づいた行動を通して世界へ関わろうとするマルセロは嘘がないという意味で最もリアルな存在かもしれません。現代アメリカが抱える貧困や差別などのリアルな現実も描かれています。 自分の思いを的確、適正な言葉で表現し、コミュニケーションに反映させたいと苦闘するマルセロが発達障害を理解する上で参考になります。私も自分の思いにぴったりした言葉を探して苦労をなさっている方々と出会っています。会話がゆっくりだから知的に劣っているわけではないのです。何も言わないからといって、何も考えていないわけでもないのです。その辺りの当事者としての在りよう(叙述)に大いに学ばされました。発達障害に関心のある方もない方も、現代アメリカ小説として「時代を映す鏡」として楽しめる作品ではないかと思います             

  • ニール・シャスタマン: 僕には世界がふたつある

    ニール・シャスタマン: 僕には世界がふたつある
    作者の後書きによると「アメリカの3世帯に1世帯は家族の中に精神疾患に悩まされてい」るそうです。翻訳者の金原瑞人さんは、訳者あとがきで「本文を全部読む前に読まないで」と書いてあります。上質のミステリーであり、ファンタジーも内包しています。読み終わった後、また初めから読み返してああ、この人があのキャラで・・・と振り返りたくなりました。私は書名からある予断をもって読み進みましたが、それでも十分に引きこまれました。当事者でなければ書けないような描写で叙述されています。それは作者が当事者家族でもあるからです。疾病と回復の物語です。今映画化が進んでいるそうです。話が進むにしたがって頭の中に映像が動きだしてきて惹きこまれます。ゲーム世代ならなおさらと思います。

  • 長谷川ひろ子・秀夫: 生死いきたひ 生前四十九日

    長谷川ひろ子・秀夫: 生死いきたひ 生前四十九日
    タイトルの「いきたひ」は、書影で見られるように本当は生と死が合体した造字で、著者が考案したものです。「生きたい」「生きた日」と読めます。生に切れ目なく死が続いていることも読み取れます。著者は同名の映画を自主制作されました。悪性リンパ腫で40代の若さで亡くなったご主人の希望でなくなる前の家族の看取りの様子を映画に撮られました。ご自宅の畳の上で亡くなられた後、4人の子どもさんと著者は朝まで添い寝をされます。その映像を中心に、後から「畳の上での看取り」「腕の中に抱えた看取り」「看取りができなかった死に向き合う」方々のインタビューなどで構成されています。死を恐れるあまり、私たちは自分の死も家族の死も本気で真剣に向き合ってこなかったなあと思います。この映画に触れ感動した人々が全国で上映会をされています。看護や医学を学ぶ人達の学校でも上映されています。私は、看取りを専門にする看護師さんから紹介されて映画を見、この本も読みました。本気で向き合わなければならない死が私の周りにもあります。ゆっくり考えています。

  • 藤井克徳・池上洋通・石川満・井上英夫 編: 生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの

    藤井克徳・池上洋通・石川満・井上英夫 編: 生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの
    2016年の相模原殺傷事件の後、衝撃を受けながらも、黙ってはいられないと、障害について深くかかわっていらっしゃる6人プラス4人の方による、深い思考と問いかけの本です。タイトルの「生きたかった」から、犯人の投げかけた差別思想に対抗する書物であることが伝わってきます。6人の執筆者は、編者の4人の他に、盲聾重複障害の東大教授福島智さんと精神科医の香山リカさんです。他に、当事者・家族・支援者の立場の方4名も思いを綴られています。福島さんが述べていらっしゃるように、今は、障害の有無にかかわらず、誰もが生きづらく感じている現代日本の社会です。今回のこの事件を自分の問題として考え続ける努力を積み重ねていきたいです。自分には無縁と思っていた優生思想とヘイトクライムのその芽が自分の中に存在しないかどうか?自己点検の目も必要です。

  • 手嶋 ひろ美: 笑われたくない! (文研ブックランド)
    主人公結花は脳性まひのある小学4年生。不自由な体を笑われたくないといつも思っています。ところがお楽しみ会の出しもので結花たちの班は、二人羽織をすることになったのです。班の男子はわざと変な食べ方をして、みんなに笑ってもらいたい。結花は一生懸命、羽織の後ろの小雪と練習して、上手に食べるところを見せたい。心の中で「笑われること」にとても抵抗があるのです。 脳性まひの人の体の不自由さからくる心の苦しさ、社会の側のバリア、周囲の無理解などが結花の視点から丁寧に描かれています。私自身も今だに笑われたくないと思うことがあります。障害があってもなくても、人と違う自分を受け入れると、笑われることなどどうでも良くなるように思いました。大切なのは自分がどう生きるかということですね。著者自身も脳性まひのある人で、車いすの自分をじろじろ見る人には、自分からにっこり笑ってみるそうです。
  • アン ブース: 霧のなかの白い犬

    アン ブース: 霧のなかの白い犬
    17年度の小学校高学年の読書感想文課題図書です。主人公たちは中学生です。おばあさんの認知症と白い犬を飼い始めること、など読み始めのアイテムには、確かに小学生も関心を持つでしょうが、読み通し、内容世界に迫るには小学生にとっては難しすぎると思いました。世界の国を知り、歴史的な知識も持ち始める中学生以上に読んでほしいです。高校生でも大人でも読みごたえはあります。ネタバレになるので、おばあさんと白い犬の関係を紹介できないし、論じられないのが残念。主人公ジェシーたちはイギリスの田舎町に住んでいます。その小さな村にも移民に職を奪われたお父さん(出稼ぎにフランスへ!)や、ダウン症の村人や、学校でのいじめ、家庭の問題など、子どもが気にせずにはいられないことが満載です。ファンタジーものにどっぷりつかっている、日本のヤングにも主人公と一緒におばあさんの子ども時代を探索する旅に同伴してほしいです。イギリスやドイツの児童文学やヤングアダルト文学が障害や戦争、平和の問題を掘り下げて描いていることにいつも感心します。70年以上前の戦争の傷跡が今を生きる人間関係に影を落としていることは、日本もアジアも同じことです。ナチスの問題を自分に関わりのあることとして考えました。

  • 伊藤亜紗: 潮新書 目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか

    伊藤亜紗: 潮新書 目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか
    この著者の専門は美学や現代アーツです。ですが、元は生物学を目指していらっしゃったそうで、身体を論ずる視点が面白い。「目の見えない人は世界をどう見ているか?」もユニークな本でした。スポーツは基本的に身体条件が違う人が一定のルールの元で(公平さ)競うもの。目が見えないというハンディキャップがある人どのようなルールの元で、どのような身体の使い方をして、誰と協働して、思い切り競技・競争ができるのかを、現役アスリートへのインタビューを通して論じています。人間の身体の不思議、能力の果てしなさを思います。パラリンピック、是非観戦したいです。描かれている競技はブラインドサッカー、競泳、陸上、ゴールボールなど。

  • 古内 一絵: フラダン (Sunnyside Books)

    古内 一絵: フラダン (Sunnyside Books)
    男子が圧倒的に多い工業高校の中に女子ばかりのフラダンス愛好会がある。そこに入部した男子4人。リーダーは「フラダンス甲子園」での優勝を目指している。フラ本来の文化的意味を強く持つ男踊りを組み込んだフォーメーションを考え意欲満々。そればかりでなく、フラ愛好会「アーヌエヌエ・オハナ(虹のファミリー)」は慰問活動にも熱心に取り組んでいる。読み進むうちに笑顔が重要な要素であるフラダンスの魅力にはまる。高校生の人間模様はどこであろうと、多数派と少数派のぶつかり合いがあり、自分自身の中の青春の葛藤があるが、この物語の舞台は福島県。震災と原発事故を背景にした複雑な思いが描かれている。物語の転換点は仮設住宅への慰問でぶつけられた住民の言葉であるが、福島以外の中高生にどこまで伝わるか気にかかる。第63回読書感想文コンクールの課題図書となっている本書。原発発災の時はまだ小学生だった人達が今高校生である。風化の中でおためごかしの復興が叫ばれている。この本は楽しみながら読める痛快学園ものである。多くの高校生に手に取って欲しい。そして、今も故郷に帰還できない人達の困難と原発事故・放射能被災という現実を登場人物の苦しみを通して読み味わってほしい。(といっても既に現状はもっと進み、避難指示解除による国と電力会社の住民切り捨てが広がっている。仮設住宅は閉じられ、復興公営住宅への転居とまたまた新しい環境への適応を強いられている人達が多くいるが本書ではそれについては描かれていない)

  • 池田 晶子 睦田真司: 死と生きる―獄中哲学対話

    池田 晶子 睦田真司: 死と生きる―獄中哲学対話
    池田晶子さんと獄中死刑囚(強盗殺人犯)の往復書簡集。哲学の本は読み通すことが難しく苦労するのに、この本は短時間で読み切りました。初めは寝がけに布団の中で睡眠薬代わりに読んでいました。中盤は、続きが読みたくて朝起きがけに。そして、最後は事務机で姿勢を正して読みました。往復書簡は、死刑囚である睦田さんから、池田さんへのファンレターが雑誌の編集部に送られてきたことから始まりました。池田さんの著書(一連のソクラテスもの)によって、自分自身の罪と罰に向かい合い、殺した人の命の分まで「善く生きる」と決意している自分自身の死生観、今現在の哲学が述べられています。池田さんはその彼に本気で向かい合い、「甘い」としかり、罪と罰、殺すこと、死刑による死に向かい合い、もっと考えろと迫ります。池田さんの人間的な一面がよく現れていて、思わずクスリとしたりして哲学が苦手な私にも読み通す意欲を与えてくれました。二人とも理知の人で池田さんによれば良く似ているとのこと。言葉によって現象を吟味し思弁し尽くすお二人の姿を通して、いい加減な自分自身の生き方に反省が生まれます。死について考えている今だから出会った一冊です。生き方を考えるとは、死を考えることだと思います。

  • 志賀 泉: 無情の神が舞い降りる (単行本)

    志賀 泉: 無情の神が舞い降りる (単行本)
    物語の舞台は南相馬市小高(原発20キロ圏、旧避難指示区域)。あの日(2011年3月11日)から半月あまり、町に残っている人はほとんどいない。俺は町を離れなかった。瀕死の病人である母を今動かせば、即、死につながると案じて。母はゆっくりと衰弱していく。無人の町で、30年前の記憶が交錯する。俺の家はしがない床屋だけど、近くの八坂医院には、あこがれの転校生が住んでいた。彼女は孔雀を飼っていた。俺は孔雀のエサとして蛙を取って来る係だった。そして切ない悲劇が舞い降りる。今、無人になった医院の孔雀小屋に、黒犬が残されている。人間の避難に犬は連れて行けないから。痩せこけている犬に餌をやる。そうこうするうちに母が死に、黒犬はペットレスキューのボランティア女性に託される。巨大化した美しい羽でメスを呼び寄せる孔雀はうまく飛べないというリスクを背負う。原発は孔雀に似ていると俺は語る。止めようとしても止められない肥大化した姿。原発爆発後、半月経過した町の描写が心に残る、表題作。小高の街を歩くと彼に出会いそうな錯覚がする。もう1編「私のいない椅子」が収められている。こちらは、阿武隈山脈の海側、原発のすぐ近くに住んでいた女子高生が主人公。その反対側の地に避難、転校している。福島の高校生が、今を映した映画を創る物語。私の母は自分の両親を津波で失ったが、遺体捜索もできなかった(避難指示で)ゆえに海から離れられない。私は一人親戚のおばを頼って避難しているが、あの山の向こうを超えて、海辺に帰りたい。初め映を引き受けていたけど、声高に原発反対を叫ぶ映画に変容していく制作側(避難を受け入れる側)の高校生や支援の制作グループの主張に沿っていけずケンカして役を降りる。私はただ、自分の存在を映画を通して、今は散り散りになった友人たちに届けたいだけ。ロケで海辺の故郷に行くことが望みなだけ。映画は私とは無関係に進行し試写会が行われる。すでにそれは「わたしのいない椅子」になっている。私は義援金で買った新しい自転車で海辺の町に向かう(もちろん本当は帰れない町)。原発立地の町の女子高生の身になって、違和感なく物語の進行につき合っていけた。作者は小高で育ち、今は休校中の双葉高校を卒業した人。現在進行中の原発被災地の中側に立った物語。ホンの小さな話だけど、細部に神が宿る。あの事故がそこに住まう人々の暮らしと内面に何をもたらしたか?ドキュメントではなく文学で伝えられることは貴重なことと思う。

  • 中井 久夫: いじめのある世界に生きる君たちへ - いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉

    中井 久夫: いじめのある世界に生きる君たちへ - いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉
    著者は日本の精神科医の中でも、最も誠実に独創的に患者さんに向かい合ってこられた方だと思います。読者は、自分がお医者さんでなくても、人に向かうには、自分に向かいあい受け入れるには、どうしたらよいのか?そういった疑問を抱いて読めば、必ずヒントがもらえるようなご著書が多いです。私もずいぶん読ませていただいてきました。難しい学術書もありますが、一般書として書かれた本も奥深いのです。この本は、ご自身の子ども時の体験から今現在のいじめを受けている子どもたちに救済の言葉を紡いであります。「こころが傷つく」とはどういうことかということを、精神科医としての理解と元いじめられっ子だった体験とを合わせて子ども(小学生から高校生まで、いえ元いじめられっ子だった数々の大人にまで)にわかりやすく語りかけます。「いじめ」は「人間奴隷化」のプロセスと説明してあります。いじめの進行は、孤立化⇒無力化⇒透明化のプロセスをたどり、いつしかその場に居てもいない人になり、いじめがあっても周りに見えない状況になり、激烈ないじめが続くというその過程と構造を子どもも大人も知ってほしいです。どうしたら抜け出せるか?対策は?まずはいじめられている子の安全の確保をし、次には孤立感の解消、そして大人として、これからは決して孤立させないという保障の言葉を伝える。そのあとに、いじめられた子どもの心の傷(罪悪感、卑小感、劣等感などをふくめ)の手当てが必要です。この本を読むことは、そのための大きな手当の第一歩になることと思います。著者は60歳を過ぎて、阪神淡路大震災の傷ついた被災者に向き合う中で、自分自身の子ども時代のいじめられ体験の傷がなまなましく浮かび上がってきたと述べています。それほどに心に傷を負うことは、深く恐ろしいことなのだと改めて思いました。

  • ティク・ナット・ハン: マインドフルの奇跡―今ここにほほえむ (からだの冒険こころの冒険)

    ティク・ナット・ハン: マインドフルの奇跡―今ここにほほえむ (からだの冒険こころの冒険)
    ティク・ナット・ハンの本を紹介するならこの本を!と思って書架から取り出しここ2週間ばかり読んでいます。最初に出会ったマインドフルの本です。もう20年以上も前の出会いです。解脱を説く本です。物事、真理、現実とのかかわり方や見方を、ハン師が到達し体験した瞑想法を通して教え導いてくださいます。結局、いのちは一つ、すべてのものが繋がっているということを、実感をもって観相し、体験することが出きればよいのです。それが、呼吸を見ることであったり、互いの関わりを深く瞑想することであったりするのですが、勿論私はその入り口にも立ててはいません。ですけど、柔らかなかたり口ながら、うまずたゆまず努力すれば、体と心が安らぎ、やがては明晰な意識を保つことが出きるような生き方もできるかもしれないと希望を抱かせていただける本です。寝る前のぼんやり頭で読んで、身につくかどうか?心もとないですけど。

  • ティク・ナット・ハン: 怖れ~心の嵐を乗り越える深い智慧~

    ティク・ナット・ハン: 怖れ~心の嵐を乗り越える深い智慧~
    最近はマインドフルネスという言葉をあちらこちらで聞くようになりました。NHKでも、ストレス対処に一番有効というようなスタンスでドクターや心理士登場の番組の中で紹介されました(NHKスペシャル「シリーズキラーストレス」)。瞑想による心身の深い境地を「すべてに気づいている」という意味のこの英語に訳したのが、著者だったと、私は理解しています。ベトナム出身の大乗仏教のお坊さん。今は、フランスを中心に活動されています。たくさんの本があります。一冊読んで何かが分かったというような知識伝達の本ではなくて読みながら、自分自身の心身に適用していく実践の書です。でも、内容は深い。般若心経の、解説の本のようでもあります。叔母の死に際して、生と死や、自分自身の来た道還る道を考えている時、たまたま目の前の机の上にあり、今読みなおしています。死を畏れない。過去と未来の不安に飲み込まれない。ただ、今を生きるために怖れを優しく包み込み「マインドフルに呼吸する」ことの大切さを説く、実践の書です。

  • 中澤 正夫: 死のメンタルヘルス――最期に向けての対話 (シリーズ ここで生きる)

    中澤 正夫: 死のメンタルヘルス――最期に向けての対話 (シリーズ ここで生きる)
    著者は、椎名誠の怪しい探検隊に同行する精神科医。椎名のエッセイを楽しんでいるうちにこちらのドクターの本も出ると読んでいる。5月から刊行され始めた岩波の「シリーズここで生きる」の第1弾。新聞の大きな広告に惹かれて読んだ。ご自身の終活の話より、対談やインタビューした方々の話の方が面白い。100歳の現役精神科医の研究や治療への向き合い方に励まされた。終章に私も行っている福島関連のボランティアの話があって、ちょうどそこに行くときに読んだのでドキドキした。死への向き合い方は人さまざま、参考にはならない。むしろ生き方として参考になる。著者は何度も無宗教ということを強調している。はてさて後には何も残らないのか?そんなはずはないよねと私は思う。

  • ドリアン助川: あん (一般書)

    ドリアン助川: あん (一般書)
    この本を手に取ったとき、りーかあさまを読んだすぐ後だったので、ハンセン氏病関連が続く偶然に驚いた。意図して読んだものではない。ドリアン助川つながりで手に取った。タイトルの「あん」とは、どら焼きの「あん」のこと。千太郎はあるいきさつで小さなどら焼きのお店をまかされている。あんは既製品の缶詰を使い、その日に売れ残ったら冷凍保存して翌日新しい缶のあんと混ぜ合わせて使う。借金返済のために年中無休で一人っきりで鉄板の前で働いてもう5年になる。話し相手が欲しくて「バイト募集」の張り紙を出したら、どう見ても働くのは無理でしょうと言う感じのおばあさんが現れた。「こういう仕事をしてみたかったの」と訴える。姿は指が曲がり、左右の目の形が違っていて表情もどこかおかしい。彼女は千太郎のどら焼のあんは作った人の気持ちが感じられないと言う。持参したタッパーには極上の手作りのあんが入っていた。雇うのは無理と思いつつ、彼女のあんとゴミみたいな安い時給でよいということに惹かれて雇うことにした。それから、彼女に厳しく指導されながら、本物の小豆の扱い方を学び、手作業を覚え、彼のお店は繁盛する。読み手も千太郎のあん作りに同行しながら、あん作りの醍醐味や極意を教わったつもりになる。あずきにしっかり気持ちを向けて、小豆に働いてもらうようにというおばあさんの気合の入った言葉が心に響いてくる。そのおばあさんは、指が曲がったままというところから近くにあるハンセン氏病の施設の人ではないかという噂が広がり、お店の客足は途絶えてしまう。ハンセン氏病という病気の実態も知らず、長い間社会的隔離をされてきて療養所以外で暮らすことのかなわなかった人々がいたことなど、まるで知らない今の若い読者にとっては、半ばミステリーのような物語であろう。作中の女子中学生と共にあん作りの名人76歳の吉井徳江さんに感情移入して、いつ、どうして、なぜという、謎解きをしながら、徳江さんの生きてきた道をたどって欲しい。白いブラウスの似合う女学生が終生を療養隔離施設で過ごさなければならなかった残酷を思う。林に還っていった徳江さんの最期に泣いた。

  • 中村 茂: リーかあさまのはなし: ハンセン病の人たちと生きた草津のコンウォール・リー (ポプラ社の絵本)

    中村 茂: リーかあさまのはなし: ハンセン病の人たちと生きた草津のコンウォール・リー (ポプラ社の絵本)
    子どもの頃、なぜかしらずハンセン病をとても怖いものと思っていました。伝染する力はとても弱いのですが、隔離政策によって、日常の生活場面ではその病気の人に出会うこともなかったけど、それだからこそ病気が進行した場合の恐ろしさを意図的に民衆にしみこませたのでしょう。この物語の舞台は隔離や人権弾圧の激しくなる昭和初期よりもっと以前、明治末期の頃の草津温泉の一隅にあった湯の沢というところです。のちにリー母様と呼ばれて、湯治場に集まったハンセン病の患者さんに親しまれるようになったイギリス人宣教師、コーンウォール・リーの物語です。病気におびえ絶望的な暮らしをしている人々によりそい、病気であっても喜んで暮らせるようにと心を砕きました。その地を「よろこびの地」に変えるようにと学校や病院を建てたその活動は、今も草津の地に語り継がれているそうです。病気や障碍の姿を知ることは、心のバリアを取り去るためにとても大切なことと思います。100年前に遠い異国に来て、病者に寄り添い励まし、行動した人が実際に居たことを子どもの頃の私も知りたかったように思います。でも今になって絵本で知ることができて、それもとても重要なことに思えます。

  • ドリアン助川: ピンザの島 (一般書)

    ドリアン助川: ピンザの島 (一般書)
    ピンザとは、宮古島でのヤギの呼称であるが、この物語の舞台は架空の安布里島である。孤島の水道管敷設の作業員として集められた、失業中の若者3人。ヤギ乳のチーズと南の島の植生と自然が物語の裏主人公。都会から来た若者が何の仕事を担うの?「なんか、謎が多いっスね、この島」と若者の一人が言うように、初めは島そのものへの謎で読み進み、やがてヤギ乳のチーズ作りがどのように成功するかわくわくしながらページをめくった。屈折した若者、涼介とヤギの出会いは心を打つ。涼介は実は、この島にある人物を求めてやってきた。離島の現実はちょっとばかり甘い描き方?とも思わないでもないが(本当の離島に7年も暮らした身としては)、2世代にわたる夢に挑戦する物語でもある。最終場面では、現実の八丈小島を思ったりもし、思わず涼介にエールを送ってしまった。  友人のサイエンスさんは、ずっとヤギのチーズを作りたいと言い続けていた人である。島とヤギチーズ、二重の郷愁でこの本を手に取った。

  • 古森 重隆: 魂の経営

    古森 重隆: 魂の経営
    新聞の大きな広告につられて、読みました。富士フィルムという会社が、デジカメに押されてフィルムつくりや現像という本業が消滅しそうになったとき、どんな形で再生したかという話です。トップに立つ人がどんな形で未来をイメージできるのか。どれだけ大きな絵柄が描けるのかが事の成否を決めていくように思います。今を死守するという発想では、滅亡への道を転がるんだなあとよく分かります。今の私たちの国はどうでしょう?新しい発想で国を創るのではなく、昔へ昔へと復古する発想しかないように思えて残念です。著者の魂の神髄には「勝てる事業」がありそう。「負けてはならない」という敗戦からの痛烈な思いがある。でも、大義や優しさがなければ勝ちにも強さにも意味はないと。この会社に興味をひかれたのは、実はGRAPHICATIONという広報誌を無料で広く配布しているからです。内容は素晴らしい写真で日本や世界の生活と文化を伝えています。さまざまなジャンルのエッセイで視野が広がります。私はある絵本作家さんの伝手で数年前から読ませていただいています。写真文化を守るという確固たる信念のもと、化粧品や衣料品に製作の現場が広がっても原点を守っていられることに感銘しています。震災の時、津波でなにもかも失われた方々が必死に探し求められた写真。洗ってよみがえらせることができた写真の強みはずっと残ることでしょう。